龍頭光山
筑前国分寺
[國分密寺]
高野山真言宗
★★☆
国分寺
国分天満宮
国分尼寺跡
伊藤氏参拝済
九州四十九院薬師霊場第1番札所
筑紫四国八十八カ所霊場第96番札所
- 住所・電話
- 〒818-0132 福岡県太宰府市国分4-13-1 標高:48.5m 地図 GMAP 092-924-3838
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- 本尊
- 薬師如来
歴史
天平13年(741)の聖武天皇(724-749)による国分寺建立の詔によって国ごとに、僧寺として金光明四天王護国之寺(国分寺)、 法華滅罪之寺(国分尼寺)が建てられた。高野山真言宗 筑前国分寺はその 旧国分寺の金堂の跡地に伽藍を構えている。(Links① より)
伊藤氏メモ江戸時代の元文年間(1736-1741)に僧俊了が堂を再建、天明年間(1781-1789)にも僧忍龍が熱心に勧請して山門など寺の修復と再興を図ったと伝えられる。この頃になると、黒田美作(黒田藩家老で三奈木支藩藩主)から寺産となる田地の寄進を受けている。
明治24年(1891)に原崇寿師が入寺して、伝世する薬師像を本尊に本堂再建、坊舎も修復して、現在の筑前国分寺の中興・開山1世となった。以来、当代の原弘善住職で5世を数える。(以上 『福岡の名刹・古刹55ヶ寺』より)()
ひとくちメモ
筑前国分寺は現在は高野山真言宗であるが、天平期には、三論・ 法相・律・華厳・ 倶舎・成実のいわゆる南都六宗の兼学であった。 当時の僧侶は、鎮護国家の為だけに勤め、一般民衆にとっては無関係であった。
現筑前国分寺の門前には八角灯篭がある。奈良東大寺大仏殿の前にある銅製八角灯籠をモデルに製作され、火袋には、 音声菩薩がさまざまな楽器を手に演奏している姿が刻まれている。
写真
本堂 全景 - 国分天満宮境内より撮影 遠景 - 国分天満宮境内より撮影 参道の八角灯篭 如意輪観音堂 如意輪観音 - 如意輪観音堂内 薬師の水 薬師の水(裏) - 柱の穴の中には仏像が安置されている 本堂前の庭園 参道 - 山門を背にして撮影 境内風景 筑前国分寺前の道標 門前の風景
国分寺跡(旧国分寺)
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国分寺跡は、当時のおもかげをしのべるものは七重塔の礎石・講堂の礎石のみである。 七重塔のレプリカが太宰府市文化ふれあい館に展示されている。 レプリカの案内板によれば、塔が完成した当初は柱が朱色、壁は白色、窓(蓮子窓)は緑色にぬられ、相輪、風鐸は金色に輝いていたと言う。
七重塔跡地にある案内板の内容を下記に記載する。
筑前国分寺は、奈良時代の中頃、諸国に置かれた官寺で僧寺と尼寺があった。 当時は天然痘の流行や内乱などの社会不安が続いたため、平安を願うべく、 聖武天皇は諸国に国分二寺の建立を命じた。
(中略)
筑前国分寺は、大宰府政庁西北の見晴らしの良いこの丘陵上に建てられた。 しかし、その創建についての記録は残っていない。 ただ、西海道の国分寺が天平勝宝8年(756)には建てられていた記録があるので、 筑前国の筑前国分寺もこの頃までには完成していたと考えられる。
創建当時の筑前国分寺は、約192m四方の寺域に金堂・七重塔・講堂などの建物が整然と配置されていたが、 律令体制の衰退とともに国分寺の役割も失われていき、建物も荒廃していった。
発掘調査の結果、当時の講堂や塔・回廊の一部が確認され、その構造と規模が判明した。 調査後は整備が施され、塔基壇の基礎部分が平面的に表示されている。
(財)古都太宰府保存協会・(財)九州国立博物館設置促進財団助成事業 1997年11月設置
国分尼寺跡
国分尼寺跡は、国分寺の北側約300mのところにある。 当時の様子を想像する遺構など何もない。 案内板によれば、礎石が一個残っていたそうであるが、国分共同利用施設に移設されているとのことである。
国分天満宮
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祭神は菅原道真。お宮の成立年代や由緒については詳しく分かっていないが、本殿に「弘化(1844~1847)甲□□□三月吉日」とあることから、これ以前から鎮座していたことがわかる。また、明治5年(1872)に村社に定められた。(Links② より)
境内には山上憶良の万葉集の歌碑「大野山 霧立ち渡る わが嘆く 息嘯の風に 霧立ち渡る」が立っている。 大意は「大野山に霧が立ち渡っている。我が亡き妻を思って吐く、深いため息で、一面に霧が立ちわたっている。」(境内の案内板より)
社殿の脇には大楠の巨大な切り株があり、その脇から脇芽が出ていた。すごい生命力。
『九州四十九院 薬師巡礼』の記事より
伊藤氏メモ国分寺は、正しくは金光明四天王護国之寺と称して、20名の僧侶を置き、水田10町と僧寺に封戸50戸を施入するという膨大なものであった。その後、さらに加増して、天平神護2年(766)には、金堂や塔の朽損した国分寺に対して、国司に営繕を命じているが、平安末期に武士団が台頭して地方政治が乱れてくると、各地の国分寺は府庁の庇護を失って次第に衰退した。
往時は七堂伽藍に数多くの子院を構えていたが、中世以降、再三の兵火により焼失。礎石を残す国分寺跡に、当初の面影を偲ぶことができるのみである。現在、往時の講堂跡に堂宇を構える。
当寺は土塀に五線の文様を刻む。これは寺格の最高位を表す。宝形造りの堂宇に薬師如来坐像を安置、礼拝仏として常に公開しており、脇壇には12神将を合祀する。この隣に観音堂がある。須弥壇には如意輪観音を安置している。()
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