榎社
[榎寺・浄妙寺跡]
神道
☆☆☆
歴史
この地は昌泰4年(901)正月、菅原道真が左遷され、 延喜3年(903)没するまで謫居した場所(没後は安楽寺が菩提寺となる)。 大宰府政庁の府の南館であった。 この地での道真の生活は不自由な苦しいものであった。 あまりにも酷い暮らしの中で道真自身、脚気や皮膚病に悩み、胃腸もこわすという状態であった。 道真が京の都を去る時に詠んだという歌「東風吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」。
道真が亡くなって約30年後、治安3年(1023)、大宰大弐藤原惟憲が道真の霊を弔うために浄妙寺(院)[1]を建立。 境内の大きな榎があったのでいつしか「榎寺」とよばれるようになったという。
毎年9月太宰府天満宮の神幸式大祭では、道真の神霊はここに神幸され、一夜過ごされて翌日天満宮本殿に遷御される。(以上 Links① より)
参考:『筑前國続風土記』
ひとくちメモ
境内には社殿・浄妙尼社・小堂がみられる。 浄妙尼社は、扉が閉ざされ、内部は未確認。 『筑前國続風土記』によれば、「釈迦、多寶2佛を安置す」とある。 この2仏は、社殿の内部に安置されているのかも知れない。
寺の西側には西鉄天神大牟田線が通り、門前にはその踏切がある。
写真
『筑前國続風土記』巻之8 御笠郡 中
![]() | 『筑前名所図会』 |
○浄妙寺
今は榎寺と號す。 此寺は菅丞相太宰帥にて、此所におはしましける地なり。 後一条院の御時、治安年中(1021-1024) 都督惟憲卿、彼跡をかなりみ、伽藍を一宇建られけるとかや。 今纔に佛堂一宇残りて、8月23日天神の御輿此所にわたらせ給う御旅所なり。 其日の末の時此所を出しまいらせ、天満宮の石の鳥居のかたはら、浮殿も御入、翌24日戌の時、 もとの御殿にかへし入れたてまつる。 この堂3間4面なり。釈迦、多寶2佛を安置す。(以下略)
尚、『筑前國続風土記附録』巻之11 御笠郡 中の項によれば、この地は当時は通古賀村と呼ばれていたようである。
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