龍光山
円清寺
[圓清禅寺]
曹洞宗
★☆☆
紅葉
銅鐘
如水の画像
長政の画像
栗山備後の画像
上座郡郡中三十三観音霊場第2番
- 住所・電話
- 〒838-1521 福岡県朝倉市杷木志波5276 標高:51.9m 地図 GMAP 0946-62-0803
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歴史
境内の説明板の内容をほぼそのまま記す。
円清寺(龍光山)
黒田藩草創の重臣栗山備後利安[1]が主君黒田如水の死亡した慶長9年(1604) その冥福を祈るために建立した寺であり如水の法号龍光院殿如水円清大居士からとって龍光山円清寺と名付けられたものです。 この寺には黒田如水・長政・備後の位牌が安置してあり如水・長政・備後の画像も寺宝として保存されています。
銅鐘(国指定重要文化財)大正元年(1912)指定
この銅鐘は、黒田長政が寄贈したもので 慶長5年(1600)の乱[2]に如水が日田郡渡り村、 吹揚山長福寺[3]より持ち帰り福岡に置かれていたもので 我が国に伝わった朝鮮鐘では最古の銘を有するものと同時代のものであり 見事で年代は新羅末期または高句麗初期[4]と言われています。
高さ66.9センチ、笠形39.9センチ、口径49センチ。撞座の両方に天人飛翔の図がある。 昔は干ばつが続くとこの鐘を持ち出して筑後川につける風習があり雨乞いのために何度も筑後川に沈められています。
杷木町観光協会 平成3年9月
伊藤氏メモ当寺の本尊聖観世音像は、初め金烏山紫雲庵にあった[おしどり観音像]で、豪雨による山崩れで紫雲庵が崩壊したときに村人たちが辛うじてその本尊だけを取り出し小堂に安置していたものを、円清寺建立の際、奉移して当寺の本尊にしたものと伝えられている。[5](『杷木町史(昭和56年)』より)()
ひとくちメモ
円清寺は朝倉の志波の里の柿の畑のある山の麓に伽藍を構えている。 この町には道のいたるところに石仏・石碑があり、住民の方々の信仰心の高さを感じた。 訪れたときは晩秋で境内の紅葉がみごとであった。
境内のカヤの木は幹は空洞となっており、かなりの樹齢である。 お寺関係者のお話では数百年は経っているとのこと。 余談ではあるが、カヤの木は碁盤・将棋盤をつくる材料であることも教えていただいた。
国指定の重文の鐘は本堂脇の鐘楼に収められており外からは残念ながら確認できなかった。 いつの日にか一度拝んでみたいものである。
円清寺を少し登った所に廣大山普門院がある。お見逃しなきよう。 作者おすすめのお寺である。
写真
山門 本堂の扁額 鐘楼 - 本堂向かって右 境内のカヤの大木 栗山大膳追悼墓碑 - カヤの大木の脇 境内の石碑(文化2年(1805)の銘) - 多数の石仏を従えている。 境内のミニ石仏様たち 山門 - 境内から撮影 境内風景 境内風景 - 中央にカヤの木の先端が見える 遠景
栗山利安と福萬醤油
伊藤氏メモ福萬醤油(福岡市天神3丁目)の白木家の祖は越前の朝倉義景で、 朝倉が織田信長に敗れた後、白木と名乗り、子の忠右衛門が備前福岡へ逃れて、 姫路の黒田氏の家臣栗山善助(利安)に仕えた。忠右衛門の嫡子甚右衛門が利安の娘を娶っている。 利安が上座郡1万8000石を領し、志波の麻氐良城主となると甚右衛門は志波に住んだ。 利安が没すると甚右衛門は殉死した。志波の円清寺には主従二人の墓が並んでいる。
しかし、二代栗山大善が黒田騒動で藩を追われ、孤児になった甚右衛門の嫡子太兵衛は親戚の楠屋で修行し、酒屋を開き、楠屋白木玄流と名乗った。
元禄13年(1700)、屋号を柏屋に変更し、黒田家御用達となった。文政4年(1821)、味噌・醤油醸造を始めた。 現在は販売のみとなっている(スプレー醤油や醤油ソムリエで知られている)。
福岡市大名1丁目のジョーキュウ醤油(楠屋醤油も販売)は親戚で、安政2年(1855)の創業。 博多の味を守る醤油だといわれ、多くの老舗割烹で使われている。
また、宗像市神湊のナカマル醤油(嘉永3年(1850)創業)も親戚筋にあたる。 (『福岡藩 (シリーズ藩物語) 』より)()
『筑前國続風土記』巻之11 上座部 志波(杷木の市)の項
『筑前名所図会』 | ![]() |
圓淸寺(曹洞宗)是叉志波村にあり。 龍光山と號す。 黒田長政の家臣栗山備後利安、如水の為に此寺を創立せり。 如水の追號を龍光院といふ。 別號を圓淸居士と自稱せられし故、山號寺號とす。
開山は第翁和尚と云。 如水公の位牌及書像あり。 長政の位牌も安置せり。 如水の事を記せし文あり。 かけ物とせり。 黒田氏を藤原氏とす。誤りなり。
佛殿の本尊観音は金鳥山に在りし佛にて、佛師法元が作といふ。 叉同作の四天王の像あり。 (中略) 金鳥山集雲菴址 志波村の内、烏山と云所に禪寺の跡あり。 開山は無方和尚と云。 此寺は三原弾正定吉と云人創立せり。 此人筑後國の三原を領して、大友氏の旗下也。 或時豊後に往んとて、志波村の香山淵の邊を通りしに、 其時は此淵深かりしが、折節鴛鴦雌雄二其淵に遊泳しを、 三原氏弓を以雄を射る。 もとより手だれなりければ、あやまたず射殺。 取あげて見ければ、首を射切て躯ばかり也。 その後豊後に逗留して三原に帰る時、叉香山淵の側を通る時、 鴛鴦の雌一其淵にうかぶを見て、叉弓にて射殺しぬ。 取上て見れば、其雌の翅の内に、去比射切たる雄の首を挟めり。 三原氏是を感じて、我罪ふかきことをみづから悔て、たちまち出家し、 三箇所に寺を創立す。
(中略)
しかれども三寺共今はなし。みな禪寺なり。 此集雲菴の本尊観音をば此村の圓淸寺に移して今にあり。
(後略)
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