歴史
寺内で配布されているパンフレットの内容を要約する。
文永年間(1264-1275)、臨済宗として創建(他説に弘安5年(1282))。 応永元年(1394)、益田氏13代秀兼が寺領370余石を寄進し曹洞宗に改め菩提寺とする。 弘治年間(1555-1558)、19代藤兼が長州大寧寺14世繁興存栄和尚を勧請開山とし、末寺22ヶ寺を加え隆興させた。 慶應2年(1866)の石州戦争[1]の時には、村田蔵六(大村益次郎)率いる長州軍が当寺を本陣・野戦病院とした。
寺内には益田家19代当主藤兼(1529-1597)の五輪塔、長州藩・乃木三蔵[2]他3墓がある。 裏山の萬歳山には観音三十三ヶ所の霊場がひらかれている。 本堂には平安期の作の十一面観音像・千体地蔵尊が安置されている。
ひとくちメモ
妙義寺は萬歳山の北側山裾に伽藍を構えている。 山門は黒瓦のどっしりとしたたたずまい。木鼻・貫の彫刻も歴史を感じさせるものとなっている。 本堂に向って左手に歴代和尚の墓地へ通じる道があり、イチョウの巨木が立っている。 本堂に向って右手の玄関には、巨大な開梆がかけられている。 境内全般、草木の緑にかこまれたしっとりとした雰囲気の寺院である。
裏山の山頂にある観音堂への登り口は、西隣りの益田高等学校の裏手にある。 そこは広大な墓地となっており、その先に観音霊場への坂道の入口がある。 参道脇には麓から順に番号付けされた13の観音様が鎮座されている。 麓から頂上までの標高差約95m。山道で人気が無いので単独行は避けたほうが良い。
門前の道を挟んで北側には石橋があり、その先には北方向に一直線に道が伸びている。 長い参道であるようであるが、どこが参道口かは未確認。 歴史を感じさせる石橋の周辺には、益田兼堯(益田城15代城主)像をはじめ、多数の石塔・石仏、お堂などがある。