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宝珠山() 正法寺(しょうぼうじ) 高野山真言宗

歴史

『三隅町誌』によれば、宝珠山正法寺は天平9年737、行基菩薩草創の霊場と伝えられる。 建仁2年1202石見国司として下向した藤原国兼により堂塔が整備再興された。 国兼の孫兼高石見権介となって益田七尾城に入るに至り、兼高の二男兼信が三隅に来て、高城に城を構え当寺を菩提寺とした。 元亀元年1570高城落城に際して兵火を蒙り、堂塔伽藍一切灰燼に帰した。 三隅家没落の後天正年間1573-1593、益田兼家の助力を得て尊慶法印が勧進造営の事にあたったと伝えられる。 その後堂宇腐朽はなはだしく、昭和7年解体して堂宇を建立した。現在第32代という。

同書には奥の院について下記の記事がみられる。

正法寺 奥の院

天然の岩石を穿って洞穴を作り内宮外宮を構えて天照大神と豊受大神が祀られている。 三隅兼連公は厚くこの神社を信仰し、常に部下に「汝等、邪心起こらば正法寺奥の院に参るべし。忽ち消えん。」と戒めていたという。

里人はこの地に七度参拝すれば伊勢神宮に一度参拝したと同じ功徳に恵まれると信じ、崇敬を怠らなかったという。

門前の道は旧山陰道のようである。

ひとくちメモ

本堂正面の両脇には、年代を感じさせる仁王像が建っている。 表面の色はほとんどあせているが、所々朱色の塗料の痕がある。 境内正面には「奥の院」と記された道標があり、それに従って坂を登って行ったがそれらしきものは確認出来なかった。

境内正面の山裾には伝三隅兼連の五輪塔があり、 前の山中には鐘ノ尾砦跡があるという。

伝三隅兼連の五輪塔

案内板の内容をそのまま記載する。

史跡 伝三隅兼連(みすみかねつら)の五輪塔

三隅兼連は三隅庄(みすみのしょう)の地頭で、高城山(たかじょうざん)に主城を構えた三隅城の4代城主でもある。 世は南北朝時代で、彼は終始、宮方として戦い、その活動の一端は「太平記」に記されている。

兼連が宮方についた契機のひとつに、奈良の真言律宗般若寺の本性明覚(ほんじょうみょうかく)が、この石見地方に来て教化したことがあげられている。 彼は、この明覚について仏門に入り「信性(しんしょう)」という法号をえている。

正平10年1355に兼連は、京都洛中で戦いに倒れた。 「自分の墓は東(都)に向けてくれ」と遺言したという。 よってこの五輪塔は「東向の墓(とうこうのはか)」とも呼ばれている。

正法寺は三隅氏の菩提寺である。なお、昭和12年に創建された三隅神社は三隅兼連が祭神である。

三隅町教育委員会


鐘ノ尾砦跡

案内板の内容をそのまま記載する。

史跡 鐘ノ尾砦跡(かねのおとりであと)

町内大字三隅にある真言の古寺正法寺の前の丘を鐘ノ尾といい、この丘は三隅氏の兵糧蔵のあった所で、近年まで戦火で焼けた米が発見されたという。

鐘ノ尾とは、敵を発見したとき、鐘を鳴らして、見方の出城に警報した山の尾から起こった地名である。 川向うには、火を燃やし煙を上げて警報した火の原(ひのはら)(現在は火野原(ひのはら))があり、大字岡見(おかみ)と三隅の境には火の峠(ひのたお)がある。

現在も護摩をたいて戦死者を供養したという護摩壇が残っている。

三隅町教育委員会


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