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桐野山() 妙覚寺(みょうかくじ) [肥前の延暦寺] ★★ 天台宗

歴史

佐賀県の歴史散歩』と仁王門に掲げられた「桐野区住居位置マップ」に掲示された多久市教育委員会の説明文(昭和57年3月)によれば、 本尊は木造不動明王立像(伝慈覚大師作)。 天平4年732(あるいは天平13年741)、行基が聖武天皇の勅願寺として創建。 往古は120余りの末寺を有したが、数度の火災に遭い焼失。 天正年中1573-1593憲海龍造寺長門守[1]から寺領50石を受け再興。 現在の観音堂・本堂・庫裏は昭和8年1933に再建されたものという。

弘法大師筆と呼ばれる胎金両界曼荼羅(県重文、県立博物館寄託)、四天王石像(伝弘法大師作)がある。 ほか境内には諫早塚ほか多数の石塔石仏がみられるという。

他に刻像青面金剛石祠(扉に寛文12年1672銘、多久市重要文化財)・六地蔵塔仁王門がある。

ひとくちメモ

仁王門は麓の桐野バス停付近にある。 そこから約100mはだらだら坂、その先は石段である (石段途中に諫早塚あり)。 やっとこさ観音堂にたどり着く。 仁王門より観音堂までの距離約300m。 仁王像・石段・石祠・石塔・石仏などなど見どころ多数あり。 写真は以下の順に掲示する。 各ポイントの位置関係は右上の「桐野区住居位置マップ」をご覧ください。
本堂域 鳥居の内側の領域 五百羅漢域 観音堂域 参道 仁王門 バス停付近 諫早塚

本堂域

本堂前にはカエデのかなりの古木が4-5本あるのが確認できる。 本堂の斜め前には傘が欠落した六地蔵塔がある。 本堂内の様子はLinksのページをご覧ください。


鳥居の内側の領域

ここは本堂に向かって左手の領域である。 10数段の石段を登ると、笠木部が欠落した鳥居(安永4年乙未1775銘)があり、その先に多数の石祠・石仏がみられる。 刻像青面金剛石祠もこの領域にある。

境内の案内板によれば、刻像青面金剛石祠は庚申塔の一種。 庚申塔は通常は文字塔である。市内に残る刻像の庚申塔はこの石祠だけだという。 作者が見た国東半島の天台宗寺院(富貴寺傳乗寺など)で見た庚申塔と共通点があるように思える。


五百羅漢域

「桐野区住居位置マップ」では、ここは「五百羅漢」と表記されているが、ここにあるのは全て観音像と思われる。 作者が何か勘違いしているのかもしれない。 観音様達は皆良いお顔をされておられる。 少し離れた所には石組のみ残る鐘楼跡がある。


観音堂域

観音堂より一段下がった所には石造五重塔ほか多数の石塔・石仏群がみられる。

「桐野区住居位置マップ」では、ここは「観音堂」と表記されている。 作者は単に神社だと思い堂内を観察するのをスルーしてしまった。 自宅に戻りLinksのページを見ると、銅鏡(ご神体?)と多聞天・増長天の像が安置されているという。 残念無念である。


参道

石段はみごと。ピッチの長い石段が200mほど続く。この規模の石段はなかなか見られない。 一見の価値十分である。 途中に六地蔵塔をはじめ諫早塚・多数の石塔・石祠群がみられる。


仁王門

この仁王様は今まで作者が見た中で最も怖いお姿をされておられる。 夜に、この前を通るのは子供でなくても怖いと思われる。 格子の中に安置されているため、全景の写真が撮れませんでした。


バス停付近

桐野バス停があり、六地蔵塔・恵比寿像・大黒天像などがみられる。 脇には桐野公民館がある。


多久市重要文化財諫早塚昭和56年3月20日指定

案内板の内容を下に記す。

寛延元年1748、諫早8代領主諫早茂行は、佐賀本藩の養子問題(世継)に関与したことが不調法であるとして、佐賀本藩から1万石の領地の没収と隠居蟄居が命ぜられた。

この処分は諫早領の財政・生計が困窮すると怒った家臣および百姓が幕府への直訴を企て、百姓騒動が起こった。(諫早百姓騒動)

この鎮圧にあたったのが多久邑7代邑主多久茂堯で、 兵約1600名を以ってこれを鎮めた。 この騒動は処刑者26名におよんだが、茂堯は、この騒動は主君の処分に対する家臣・領民の心にあらわれた殉死と評し、寛延4年11月9日、法華100部を読踊し塚を築き碑を建てその霊を弔った。 供養塔は中央に諫早墳、上段に5名の上級家臣、下段に10名の百姓の名が刻んである。

諫早墳は諫早百姓騒動の史実と一致し、諫早氏・多久氏とも龍造寺一族で、鍋島氏の龍造寺庶家に対する政策などが伺え、その歴史的価値は高い。

昭和57年3月 多久市教育委員会

この塚の道を挟んだ下の畑で農作業をされておられた地元の初老の女性のお話では、 今でも長崎からの参拝者があるという。


脚注

関連寺院

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