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西渓山(せいこくざん) 貴明寺(きみょうじ) [貴明禅寺] ★★ 臨済宗南禅寺派

歴史

伊藤氏メモ開山幸崎徳雲和尚は、元々は長崎大村・正法寺の住職であったが、当時大村に於いてはキリシタン大名である大村純忠がキリスト教布教に力を入れたため、徳雲は行基菩薩の作と伝えられる阿弥陀仏の像(大正4年1915焼失)を背負って武雄に逃れ救いを武雄19代領主後藤貴明に求めた。天正元年1573冬のことである。

貴明は永島西渓の別墅(べっしょ)(別荘のこと)に徳雲を開山として迎え、天正2年1574春、後藤家の菩提寺として貴明寺を創建した(現在地のやや下手。江戸期に現在地に移転)。

しかし、養子・惟明(これあきら)の反逆1574後、武雄は龍造寺氏の支配下へ変わり(龍造寺隆信の三男・家信を養嗣子として迎えた)、貴明は北方芦原の館に隠退し、天正11年1583享年50で死去した。また、武雄領主の菩提寺も以後は円応寺(武雄市武雄町富岡)となった。

徳雲はその遺言に基づき家臣園田次郎左衛門を京都に上らせ、仏師感定軒によって貴明の木像を刻ませた。 天正16年1588木像は芦原光明寺(武雄市北方町芦原)に安置されたが、元和8年162220代領主家信の死去を機に、その室・槌市(つい)(貴明の娘)の希望により、木像は貴明寺に移され現在に至る。

なお、この貴明の木像(武雄市重要指定文化財)は、平成22年より約1年をかけて糸島市一貴山の浦仏刻所において修復がなされ、着色しない木地の凛々しさで戦国武将の厳しさが伝わるものとなっている。本堂本尊の左側に安置されいつでも見ることができる。毎年9月1日には、当寺で貴明(たかあきら)さんまつり」[1]が行われている。現第16世。(当寺の案内板・パンフ・『(像修復記念冊子の)後藤貴明公伝』などより)()

『武雄市史』広福寺の項に、貴明寺に関連する記事がみられる。 「寛政元年1788の調べで貴明寺(西谿山 貴明寺と表記)が広福寺の末寺であり、 寺内に貴明の木像が安置され木像の裏書には天正16年158811月芦原の光明寺に安置する旨の裏書があり、後に貴明寺に移されたもの。」という。

尚、後藤貴明の墓所は光明寺にある。

ひとくちメモ

伊藤氏メモ歴史と苔のある禅寺の古刹で、ご住職もご親切な対応をしてくださるいいお寺でした。()

寺は武雄の町の南側のはずれにある。 矢ノ浦古墳のある小山の南側山裾である。 参道口は住宅内にあり少しわかりづらい。 表札碑を過ぎると左手には蓮池がある。 さらに進むと「ほほえみ地蔵尊」が鎮座する三叉路に突き当たる。 参道は向かって左手である。 さらに進んで右折すれば山門である(ここから本堂までは、はゆるやかな登り坂)。 そこから少し進んだ所に「不二門」がありその先の右手には池園、左手には六地蔵尊地蔵堂などが見られる。 その先が本堂である。 本堂に向かって左手に石段があり、そこを登れば鐘楼がある。 鐘楼の手前を右に進めば、石段がありその上に小堂がある。

本堂の前には両脇に木製のベンチが設置されており、「お茶をどうぞ」の表示の下にはポットと湯呑が置いてあった。 作者はここでお茶を頂戴、しばし境内の静寂を味わった。灰皿も置いてあり、一服もさせて頂いた。

境内全域は木々に包まれ、しっとりとした趣である。さらにウェルカムスタンス満点のお寺である。

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脚注

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