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般若山(はんにゃざん) 慶誾寺(けいげんじ) [慶誾禅寺] 曹洞宗

歴史

Linksのページによれば、鍛冶屋村(東与賀町)にあって広厳山流長院と称していたのを、慶長3年1598慶誾(けいぎん)尼によって現在地に移し、同5年3月慶誾尼が没したので、ここに葬り、般若山慶誾寺と改めた。

慶誾尼は龍造寺隆信の母で、のち鍋島直茂の父清房に再嫁し、龍造寺、鍋島両家の間にあって強い発言力をもっていた。

明治初年頃の廃仏毀釈の折に、慶誾寺の表門は龍泰寺に移し、表門に安置されていた十六羅漢(木造)は東与賀町上古賀の栄蔵寺へ、また裏門は東与賀町飯盛の悟真寺へ、五百羅漢は北川副町の岩松軒へ移動した。

寺には折本装の白地金字金剛般若波羅密多経が伝えられている。 見返し絵はないが、至正[1]27年1367の奥書があり、山口県長門市にある曹洞宗瑞雲山大寧護国禅寺から寄進されたとの銘文を有しているという。

伊藤氏メモこの慶誾寺は、当初は「けいぎんじ」と言っていたが、いつの頃か「けいげんじ」と呼ぶようになった。現第40世。

本堂前に「戦利品の手水鉢(ちょうずばち)」があり、次のような説明書きがある。()

天正8年1580龍造寺隆信が弟・長信(ながのぶ)の子で初陣の多久安順(たくやすとし)を率いて柳川城を攻略した際、戦利品として持ち帰ったもので、後日、母君で当寺の開基・慶誾尼の追善菩提のため、当寺に寄進したものである。

ひとくちメモ

伊藤氏メモ本堂裏手に広大な墓地が広がり、龍造寺長信や多久家6代までの墓なども整然と並んでいる。 ただし、慶誾尼の墓はこれらとは別に山門の右側の所にある。(2018-03-10)

境内は、規模こそ大きくは無いが、心なしか女性的なこまやかな設計がなされている趣である。 裏手墓地の多久家6代までの墓所は壮観である。 龍造寺長信関将監清長(せきしょうげんきよなが)の墓碑(案内板にあり)は未確認。 墓地の一番奥には、名の有る方々の墓碑と思われるものが多数並んでいる。これも壮観である。 この中のいずれかと思われる。

地名の「鹿子」は「かのこ」と読む。

脚注

関連寺院

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