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()肥前国分寺跡(ひぜんこくぶんじあと)[金光明四天王護国之寺]☆☆☆仏教礼拝所

歴史

Linksのページによれば、聖武天皇による国分寺・国分尼寺造立の詔は、天平13年(741)に出されており、そのころに造られたと思われるという。 現地の案内板の内容を下に記す。

肥前国分寺跡

国分寺は奈良時代に国ごとに置かれた官立の寺です。 国分寺は僧寺である「金光明四天王護国之寺(こんこんみょうしてんのうごこくのてら)」と尼寺の「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」の2つをさしますが、普通は僧寺を国分寺、尼寺を国分尼寺と呼んでいます。

聖武天皇は、国ごとに尺六(高さ4.8m)の釈迦像や七重塔を造らせ、経文を写し、読経させて、国家安寧、厄難退散、五穀豊穣を祈らせました。

肥前国の国分寺も、この頃、大和町大字尼寺のこの地域に造られました。 大和町には政治の中心であった国府が置かれ、国分寺は国府域の東南方に配置しました。 尼寺は国分寺の西側約2町(約216m)の所にありました。

肥前国分寺跡は、昭和49、50年度に発掘調査が行われました。 その結果、寺の広さは方2町(1辺が約216mの正方形)であり、中央に釈迦像1体と脇侍2体が安置された金堂(こんどう)(4間×9間)があり、その南東方に七重塔が建っていた基壇(24m×25m)があったことが確認されました。 金堂の北側には僧侶たちが修学する講堂があったと推定されます。

僧寺には20人の僧侶、尼寺には10人の僧尼が置かれ、国分寺は当時の文化の中心であったのです。 その規模は驚くほどの大きさであり、礎石一つにも当時の様子をしのぶことができます。 私達の郷土の優れた文化財として大切に保存して行きましょう。

佐賀市教育委員会

ひとくちメモ

案内板に掲示されている伽藍配置推定図によれば、道端にある案内板のある位置が国分寺境内のほぼど真ん中のようである。 案内板より北側はどうやら墓地として使われているようであるが、かなり荒れている。 多数の石塔・石仏・墓石・小堂などが見られる。 肝心要の礎石などはその領域では確認できなかった。

ここと、国分尼寺のほぼ中間地点には、「築山児童公園」があり、公園の中の小山は古墳跡という(地元の古老の談)。 公園の道を挟んだ北側の道端には大きな石塔がある。 これらは、国分寺・国分尼寺に関連するものであろうか?

国分尼寺と国分寺との間のラインと平行に、少し南側には古代官道が走っていたと何かの文献で読んだ事がある。 太閤秀吉名護屋城布陣のおり、この官道を通ったとの伝説(?)があると聴く。 (メモとして残す)

石塔

刻まれている文字はほとんど判読不可。

築山児童公園

地元の古老のお話によれば、前方後円墳とのこと。 「古墳」(小山)の上には石塔・墓碑と思しきものなどが散見できる。


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