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() 鵜殿石仏群(うどのせきぶつぐん) [鵜殿山平等寺跡] ★★ 真言宗

歴史

境内の案内板の内容を下に記す。

佐賀県史跡 鵜殿石仏群

鵜殿石仏群については、次のような伝承があります。

大同元年806、空海(弘法大師)が唐より仏教修行をし、遣唐使と共に帰国した際にこの地に立ち寄り、 釈迦如来・阿弥陀如来・観世音菩薩の3体[1]を岩肌に刻んだのが鵜殿石仏群の始まりで、 その後、天長年中824-833に唐から帰朝した常暁(じょうぎょう)により、鵜殿山平等寺[2]も建立されたと、 文禄3年1594に書かれた『鵜殿山平等寺略縁起』に記されています。

しかしながら、現存する60数体の石仏の中には、空海が生存していた平安時代の石仏は一体もなく、 最古のものは14世紀の南北朝時代の石仏で、ここには、南北朝時代から江戸時代にかけて綿々と彫られた石仏が現在残っています。

鵜殿石仏群を代表するのが14世紀に二天窟(にてんくつ)に彫り込まれた持国天(東方を守護する仏)と多聞天(北方を守護する仏)、そして二天に守られている鵜殿石仏群の本尊である十一面観音です。

また、南面壁には、15〜16世紀に彫られた薬師如来像不動明王像、さらに不動明王の従者で善の心を表す矜羯羅童子像(こんがらどうじぞう)と、蛇を手に持ち悪の心を表す制多迦童子像(せいたかどうじぞう)などがあり、さらに、仏の世界と現世を結ぶ通り道である胎内くぐり(たいないくぐり)東面壁に刻まれた千体仏など、各時代性を反映した仏像が彫られています。

この鵜殿石仏群が位置する岩山は、かつては鵜殿山ともいわれ、古来より多くの仏様が存在する神秘的な山だと考えられていました。 つまり、人間界を離れ、仏が存在する鵜殿山で修行すれば、より修行のステータスが向上できるといった信仰のもと、 鵜殿山の仏教文化は栄えました。

こうした鵜殿山で山岳仏教が興隆した背景には、近接する丘陵地も館を構え、14世紀の南北朝時代に相知(おうち)一帯に勢力を振るった松浦党(まつらとう)の相知一族の保護が想定され、その後、16世紀になると、上松浦党の盟主である波多氏(はたし)や配下の久家氏(くがし)の厚い崇拝や保護があったことが歴史記録に残っています。

平成25年9月 唐津市教育委員会

ひとくちメモ

石仏群は、岩山(鵜殿山)の中腹を取り囲むように配置されている。 入口付近から反時計回りに岩の仏主窟南面壁胎内くぐり東面壁の順である。 東面壁の先にも、石仏があるようであるが岩山の崩落の危険があるため立入禁止とされていた。

作者は西側の参道口より、参拝。参道口には戦国時代の夫婦像が置いてあった。 参道は下りの階段約50段、登り階段約40段といったところか?よく整備されている。 東側の参道口もあり、こちらは車ですぐ近くまで行けるようである。 写真は下の順に掲示する。

二天窟 主窟 南面壁 胎内くぐり 東面壁 入口付近の岩の仏 参道 戦国時代の夫婦像

二天窟

彫刻は非常に丁寧にされている。作者はしばし立ち止まり合掌。保存状態は良好。

二天窟は風化防止の仮覆屋で覆われている。 境内の案内板によれば、覆屋は、日差しを遮って塩類風化を防ぐ試みの為という。 逆効果の可能性もありという。 写真のキャプションに掲示した像高は『佐賀県の歴史散歩』より引用した。


主窟

内部はかなりの広さである。 崩落防止用と思われる白い柱が数本設置されている。 天井からはときおり地下水の水滴が落ちてくる。 おびただしい数の石仏である。 一番奥に「相知四国第88番札所」と表示された小堂がある。


南面壁


胎内くぐり


東面壁(千体仏)

圧巻である。この左にもまだ境内は続くようであるが、崩落の恐れの為立ち入り禁止とされていた。


入口付近の岩の仏

境内入口付近に2つの岩がある。


参道


戦国時代の夫婦像(逆修像)

この岩は、西側の参道口脇に無造作に置かれている。 工事用の簡易的な囲いはされているものの、雨ざらしの状態でいたずら、風雪などで損傷しないかと心配である。

案内板によれば、16世紀後半の室町期のもの。 仏ではなく男女(夫婦)像。岩の右手には法華経の題目「南無妙法蓮華経」が彫られている。 上戸城(じょうこじょう)(松浦党の城跡)の尾根で工事中に発見され、この場所に移転したという。 この城跡は相知町と厳木町(きゅうらぎまち)をまたがる所にあるという。

この夫婦像はこの鵜殿石仏群とは直接の関係は無さそうである。


脚注

関連寺院

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