お寺めぐりの友

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照雲山(しょううんざん) 長福寺(ちょうふくじ) 真宗大谷派

歴史

伊藤氏メモ天正12年1584、宗榮が城内村に庵を結んだのが長福寺の始まりである。『長福寺年譜』は、「大友氏の家臣であった武内山城守が、黒田如水に仕えるため筑前に向かっていたが、その途中、はき山という所で馬の蹄に何かが当たった。山城守が馬を下りてみると、そこには浄土真宗二百御丈の御本尊が落ちていた。[これは出家して浄土往生を願えとの、如来様の思し召しに違いない]と直感した山城守は、馬を返して城内村に入り、僧侶となってその絵像を本尊とあがめ、ついに往生の本懐を遂げた」と伝えている。

長福寺は、優れた学僧を輩出したことでも知られている。学寮創建時の住職であった10世通元1713-1786は、広円寺(日田市隈)から入寺。龍樹の『易行品』を研究し、その注釈書である『読易行品』三巻を完成させた。

11世普明1737-1805は、宝月としてその名を知られる学僧で、筑後永福寺(久留米市)から長福寺に入寺し、本山東本願寺の高倉学寮でも研鑚を重ねた。また詩文にも長け、とりわけ[舟過姫島]と題された七言絶句[大海中分玉女峰 娥眉翠黛爲誰容 我将明月遥相贈 影湧瑶臺十二重]は有名で、後に広瀬淡窓が九州三絶と賞賛した名句である。

12世法幢1759-1813は宝月の二男で、広瀬淡窓とも関係が深く、8歳の淡窓に詩経の句読を授けた。なお淡窓は長じてのち文化2年1805に長福寺学寮を借りて開塾しており、これが咸宜園(かんぎえん)の前身となった。

法幢の弟・法海1768-1834は、肥後光徳寺(八代市)に養子となり伝住した。本山東本願寺高倉学寮に学んで研鑚を積み、文政11年1828学僧の最高位である第8代講師(学頭)に任命され、生涯にわたって宗義の発展と統制に尽くした。 (以上「当寺HP」より)()

ひとくちメモ

に日田市内観光のおりに偶然お参りできた。 豆田の古い町並みのメインストリートである上町通りのど真ん中に伽藍を構えている。

本堂・山門はどことなく品格がある、昔なつかしい雰囲気をかもしだしている。 境内は、あいにく改装中で、享保17年1732建築の常燈明堂・享保20年1735経蔵は観ることができなかった。

周辺は言わずもがな、豆田の古い町並が続き、まるで時代劇のセットを見るような景観を楽しめる場所となっている。

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