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祥雲山大光明院()西岸寺(さいがんじ)浄土宗

歴史

伊藤氏メモ以下は、「ウィキペディア」などによる。

寺伝によれば、安貞2年(1228)の開創で、開山は鎮西上人・聖光房弁長という。他方『肥後国誌』によれば、大本山善導寺の末寺で、慶長年間(1596-1615)往生院3世・寂誉上人によって開かれたとされる。

寂誉上人の跡を継いだ泰岩が寺を中興した。当寺の由来記によると、この泰岩は石田三成に仕えた戦国武将・島清興が、実は関ヶ原の戦いでは討死することなく鎌倉光明寺で出家した後身であるといわれる。

泰岩こと島清興が当寺に入った経緯やその後の活動は、概ね次のようなものであったという。

関ヶ原の戦いから5年後の慶長10年(1605)細川忠興は江戸城天下普請のため、家臣に石垣普請に用いる石材を探索させていたが、そのうちの一人・葛西立行という臣が伊豆で泰岩と知己になり泰岩を主君忠興に推挙した。これを機に泰岩は当時の細川家の領国小倉に赴き忠興に仕えて、諸国行脚を装い各地の情報を収集。また、忠興の持仏堂の阿弥陀像を本尊として小倉に知足寺を建立した。

慶長16年(1611)泰岩は、浄土宗総本山知恩院の住職尊照満誉を介して後陽成天皇の皇位長久を祈祷し、帝より「天下上人」の号を受けた。このことから、当寺の北裏門側には「勅号天下上人遺跡」の石碑が立っている。

寛永9年(1632)肥後熊本藩第2代藩主の加藤忠広が改易され、忠興から家督を継いで小倉藩主となっていた細川忠利が熊本へ国替えとなるに際し、忠利の命を受けた泰岩は忠利の肥後入部に先立って、熊本白川の近傍に知足寺の仮堂を建て内偵に当たった。翌年、泰岩は忠利の意によって当寺に入り中興に努めた。この頃の当寺は、大伽藍を建て枡形を設け要害の地を占めるなどして、戦への備えをしたものであった。

白川の対岸にはかつて井出の口刑場があり、泰岩以来、明治維新に至るまで、当寺の住職が川越しに引導を渡すのが恒例であったという。

後に、当寺は名君との誉れ高い熊本藩主細川重賢の帰依を受け、宝暦(1751-1764)の初め、現在の山号「祥雲山」を揮毫した扁額を賜った。また、かつて当寺の境内には、島原の乱(1637-1638)において天草四郎を討ち取った熊本藩士・陣佐左衛門の墓があったが、昭和22年(1947)の墓地改葬の際に所在不明となっている。

当寺は、西南戦争でも第2次世界大戦でも兵火を免れたが、本堂の柱などに西南戦争の際の銃砲弾の痕が残る。明治以来、昭和40年(1965)まで、寺の周辺一帯は西岸寺町と呼ばれていた。当寺は、森鴎外『阿部一族』や、芥川龍之介『或敵打の話』にも現れている。()

ひとくちメモ

伊藤氏メモ南側正面の山門入ってすぐ左側には、いずれも巨大な兒育地蔵大菩薩像と宝篋印塔が立っている。現在、熊本地震(2016年)の影響で、本堂は出入危険・要注意の表示がされている状態である。()

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