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五葉山() 寛元寺(かんげんじ) [寛元禅寺] 臨済宗南禅寺派

歴史

伊藤氏メモ創建は寛元元年1243。開基は西牟田弥二郎家綱、開山は雲山元怡(うんざんげんい)禅師である。 西牟田家綱とは、鎌倉幕府から筑後に赴任してきた地頭で行西入道ともいう。 元怡禅師は、家綱の次男・家次のこと。 出家して肥前万寿寺(佐賀市大和町)で得度、長らく鎌倉の円覚寺で修行し住持まで務めた後に帰郷した。当時の高僧である。

元々この寛元寺の地には行基の開基と伝えられる休気山(きゅうきざん)竹立院(ちくりゅういん)という寺があったので、西牟田家綱と元怡禅師の父子は諸堂を完成させ、禅刹としての結構を整えた。 寺名は、年号にちなんで寛元寺とし、西牟田家の菩提寺として建立された霊鷲寺(りょうじゅうじ)の末寺とした。

当寺には、正平7年1352に南朝方の征西将軍懐良(かねなが)親王から祈願命令が下された文書が残る。 中世においては南北朝、戦国時代の2度にわたる戦乱と数度の火災、西牟田家の没落などで寺勢は衰えた。 しかし、慶長12年1607に筑後の太守田中吉政の寄進で再興され、続く藩主の有馬家も寺領を寄進して当寺を庇護した。 延宝8年1680に霊鷲寺が松崎藩の藩主菩提寺となって松崎(現:小郡市)に移転した後は、当寺が西牟田家の菩提寺として、また筑後屈指の禅窟として今日に至っている。

本堂の天井に画かれた「雲竜の図」は狩野永錫の作と伝えられる。また、観音堂に祀られる聖観音像は元々西牟田家の守り本尊であり、運慶の作と伝えられる。(『筑後の寺めぐり』より)()

境内の案内板と『新版 福岡県の歴史散歩 (新全国歴史散歩シリーズ)』の寛元寺の項によれば、 かつては霊鷲寺(現:小郡市松崎)正覚寺(現:久留米市寺町)と共に「西牟田三ヶ寺」として信仰を集めてきたという。

寺蔵の寛元寺文書は福岡県文化財。 観音堂の乳婦観音菩薩像は伝運慶作(元は鷲寺区にあった松源寺の本尊であったが、同寺が火災に遭い明治初期に移された)。 「母乳の出が悪い婦人が祈願をすれば通じる」として現在も厚い信仰を集めているという。 本堂裏手には西牟田家綱夫妻の墓という宝篋印塔2基と『筑紫地鑑(じかがみ)1682の著者 西以三(にしいさん)の墓がある。

ひとくちメモ

周辺はのどかな田園地帯。その地は久留米市と筑後市の境である。 「西牟田」「北牟田」「田中」など水田をあらわす地名が残る地帯である。

山門脇には地蔵堂、本堂前には観音堂がある。 観音堂の脇には六地蔵塔の頭部(2基分)が無造作に置いてある。 西牟田家綱夫妻の墓と西以三の墓は境内の北西の端にある。(西牟田小学校と接する場所) 周辺では、所々古い家並みも見ることができる。

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