お寺めぐりの友

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有水山(うすいざん) 坂東寺(ばんどうじ) 天台宗

歴史

伊藤氏メモ寺伝によると、創建は延宝3年784に桓武天皇の勅願寺として最澄(伝教大師)が開基。 延暦23年804に遣唐使として最澄が入唐のとき、この寺で道中の安穏を祈願し、17日間の参籠をしたと伝える。 久安2年1146に紀州の熊野三神を勧請、神仏混合の寺院であった。

中世までは霊地として栄えた当寺であったが、元弘3年1333に神社と寺院の内輪の争いから合戦になって全焼、貴重な 最澄所縁の縁起書や寺宝は全て灰燼に帰したという。 しかし、すぐに寺は再建されて、永らくこの地(広川荘)の鎮守の役割を担ってきた。

天正の豊後大友と肥前龍造寺の戦で、大友家臣の立花道雪高橋紹運の連合軍が当寺に陣を敷き、天正12年1584にはその兵火で当寺は焼失した。そして、小早川秀包(こばやかわひでかね)公により寺領は没収された。

慶長6年1601に筑後の太守として入府した田中吉政公は当寺を再興、続く有馬氏も所領を安堵したので、坂東寺はしばらく安寧が続いた。

明治元年1868の神仏分離令によって、当寺は廃寺と決まった。しかし、明治12年1879に坂東寺末寺の元普明院の和尚たちの奔走によって当寺は再興された。

現本堂の本尊は阿弥陀如来。その右側に祀られる千手観音が筑後三十三箇所観音霊場第二十二番札所の本尊で、明治35年1902に本山の延暦寺から拝領したという。境内の石造五重塔は貞永元年1232の銘があり、鎌倉時代の様式を伝える貴重な塔で、筑後地方最古の在銘の塔として、福岡県の文化財に指定されている。(『筑後の寺めぐり』より)()

新版 福岡県の歴史散歩 (新全国歴史散歩シリーズ)』の坂東寺と熊野神社の項によれば、平安末期(西暦1100年代か?)に成立した熊野社領広川荘の鎮守熊野神社の神宮寺と考えられるという。 明治初期の廃仏毀釈までは西側に鎮座する熊野神社 と併せて「坂東寺」と呼ばれていたという。

仁王門にある案内板によれば、仁王像は筑後領主田中吉政(柳河藩初代藩主)が慶長15年1610に寄進したものという。

ひとくちメモ

山門の仁王像に先ず目を奪われる。木像、像長約2m。手も足も比較的縦長の造りである。 長い歴史の途中で何度か修復がされたのであろう。保存状態は良好である。 仁王門をくぐり境内に入ると両サイドに石造の五重塔がある。 承永元年1232銘の塔は向って左側のものである。 右側は江戸期のものという。

東塔の前には六地蔵塔、西塔側には石祠に入ったえびす像が見られる。 その他境内には多数の石仏群もある。

ド素人の作者の感想であるが、石塔・六地蔵塔・恵比寿像の祠などは荒削りで力強い線を感じる。 いずれも同じ系統の石工の作によるものではなかろうか?

熊野神社

熊野神社は坂東寺門前の道を西方一直線で200m余りの場所に鎮座。 鳥居はその銘によれば明和7年1770、天明8年1788、昭和48年1973にそれぞれ再建されたようである。 鳥居のすぐ先には県指定文化財である眼鏡橋、境内には楼門・鐘楼・神木ナギノキ・霊木オガタマの木・楠の木とイチガシイの巨木などが見られる。 たまたま、神木には綺麗な蝶がとまっており作者が何度もシャッターを押す間じっとしていてくれた。 神木の青い実も見ることができた。ツイている。(下写真参照)


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