境内の説明板の内容を記す。
海蔵寺の由来
正慶年中(1332-1334)峰翁祖一和尚、大暁禅師の開山として探題北条氏某・ 法名鼎岩法周居士が開基となって開創された。
しかし、南北朝騒乱[1]によって廃れ、 開創後約100年、開山の法孫で竺裔玄中和尚という人を中興開山とし、 須藤駿河守・浄興宗三居士とその妻が施主となって再び禅風盛んなるさまを取り戻すことができた。
本尊馬頭観音像は像高62.4cmの坐像である。 昭和38年に福岡県文化財として指定されており、 輪廻聖王の宝馬が世界を縦横無尽に駆けて威伏するように一切の魔障を摧破して、 大悲の本願を果たす威力ある観音として信仰があつく、毎年2月18日に御開帳を行っている。
海蔵寺はR495の内浦を福岡方面に過ぎて通称”ゆうれい坂”と呼ばれる道路を少し登ったところに伽藍を構えている。 寺前には池がありその先には玄界灘を望むことができる。 周辺は田園地帯で恰好のハイキング・散策コースである。
"ゆうれい坂"とは目の錯覚で下り坂に見えるのに空き缶を置くと坂を登って行くのでそういう名前がつけられているとのことである。 作者も実験しようとしたが、車が通る為あきらめざるを得なかった。
伊藤氏メモ開山の大曉禅師は、大応国師(南浦紹明)の弟子で博多崇福寺の3世住職である。海蔵寺には、今も大曉禅師の頂相(掛軸になった肖像画)が残されている。
海蔵寺には、岡垣町吉木にあった岡城の城主麻生隆守の墓がある。天文15年(1546)に大友宗麟の家臣瓜生左近太夫貞延に攻められて岡城は落城、麻生隆守は家臣とともに海蔵寺まで落ち延び、妻子とともに寺で自刃したと伝えられる。寺には、須藤駿河守とその妻、麻生隆守の菩提のための供養塔が建つ。
また、海蔵寺には、その親孝行ぶりが黒田の殿様にまで聞こえて、褒美に扶持米を母親が亡くなるまでもらった貧しい百姓助六サン(明和8年(1771)没)の話と墓が、母親の墓ともども残っている。()
福聚山と號す。内浦村にあり。 開山は竺裔和尚と云。永享12年(1440)11月15日に開堂す。 施主は須藤大膳亮入道宗山浄興居士と云し者なりしとかや。
内浦村の山のふかき所にありて、閑寂なる境地なり。
天文15年(1546)9月27日、 麻生河内守隆守[2]此寺にて自殺せる事は岡の城の所に詳にしるせり。
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