『筑前國続風土記拾遺』巻之38 宗像郡 下 陵厳寺の項に下の記事がある。
妙湛寺
見龍山と號す。 禅宗済家崇福寺の末也。 開基の僧を渡天英和尚といふ。年時詳ならす。 寺説に横岳山の二世廣智絶崖禅師此寺に在て楞厳経を説法しより村の名を楞厳寺といふ。 其時龍ありて前地に顕はる。 故に見龍山と號すと云。(其池ハ寺の南にあり。高樹山塘といふ。)
寺後に渡天屋敷とて有。渡天和尚の住し所なり。 廣智和尚は暦應2年(1339)9月に寂すと云。元亀元年(1570)正月大宮司氏貞下臣に命して河津掃部助隆家を、此寺にて殺されし事宗像追考に見えたり。 寺内に薬師堂あり。古像にて秘佛也といふ。
なにやら物騒な事件があったことなどの記載がある。 日本史に弱い作者は未だ理解できていないがこの付近の戦国時代のこの地区の武将の力関係を知る良い機会ではないかと思う。 上の「Links妙湛寺-ふるさと紀行」に詳しく記載されているが日本史赤点の作者はあまり理解できていない。
地蔵堂内に両手首が無くなっている最澄の立像と思しきものが安置されている。 最澄にもゆかりのあるお寺かもしれない。
伊藤氏メモ開基は天英で、創建年代は不詳。一説に建武元年(1334)といわれる(『寺院帳』)。 元々は城山(蔦が岳城)の裏手にあったが、麓に下りてきたものという。 本堂は昭和63年に建替え。『筑前國続風土記拾遺』にある「寺内に薬師堂あり。 古像にて秘佛也といふ。 」の薬師大如来は、山門左側にある薬師堂内の小祠の中に現存するが、小祠の扉は閉められており見ることはできない。住職の世代数は不明とのこと。()
妙湛寺は城山の西側の山裾に伽藍を構えている。そのすぐ北西側には蘿岳山龍泉院 正法寺も伽藍を構えている。
妙湛寺の境内の敷地面積はかなり広い。駐車場もかなりの台数が駐車可能である。
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