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戸上山()満隆寺(まんりゅうじ)[戸上神社]☆☆☆仏教礼拝所

歴史

大師堂内に掲示された額の内容を下に記す。

戸上山満隆寺について

縁起書によれば、弘法大師が平城天皇の大同元年(806)、唐より帰朝の折、関門海峡をご通過。船中より戸ノ上山を仰ぎ当地に下船してこの霊峰に登り密法を修め、山麓に一宇を建立し、随身供養の観音像を安置されたのが満隆寺の起源であります。

中世戦乱の世に、大友宗麟の武将が門司城を攻めるにあたって当地に乱入した際、その兵火に罹り山上山下の堂宇・僧坊は悉く焼失しましたが、慶長年間(1596-1615)僧快周が再建中興しました。 その後、修験道に属しましたが、明治初年(1868)神仏分離の制度となり、永く続いた神仏混交時代も終わりました。 現今の大師堂はその名残と伝えられております。

戸ノ上山中腹にある瀧の観音寺の前身は当寺の奥の院の位置づけであったようだ。(以前公開されていた瀧の観音寺のホームページより)

ひとくちメモ

満隆寺の山門は、戸上神社の大鳥居をくぐって右手にある。 門前には文政11戊子年(1828)銘の大きな大日如来が祀られている。 境内の入口には仁王像が立っている。

コンパクトな境内には満隆寺の遺構と言われる大師堂と日切地蔵堂が並んで立っている。 当寺跡は現在は戸上神社の管理となっているようだ。

戸上神社(とのえじんじゃ)

寛平年間(889-898)創建される。 奉祀の際、御霊代(たまみしろ)枝折戸(しおりど)に奉載して山頂[1]に奉安したことからこの山を戸上山(とのえさん)と号し、神社を戸上神社と称するようになった。

江戸時代、小倉藩主、細川・小笠原の尊崇が篤く、社殿造営・社領寄進などがされた。 また、九州の諸大名の参勤交代の折、大里宿を通過時、武運長久・海上安全を祈願された。

旧柳郷(大里(だいり))の氏子達は古来「戸上権現」と呼び、開運・長寿・産業興隆の鎮守の社として崇めてきた。(以上 境内の石碑・戸上神社HPより)

参勤交代制度がはじまると、筑後久留米藩は寛永20年(1643)は大里の大川河口に船屋敷を置いた。 藩主をはじめ船屋敷衆は平素から戸上権現を尊崇し、鳥居・灯籠・絵馬等を寄進した。(戸上神社HPより)

鳥居を初め狛犬・門柱なども普段作者が見るものよりも2廻りほど大きい。 大鳥居の前に至る参道はほぼ一直線で長崎街道の通る玄界灘の海岸まで通っている。1km強の距離である。


関連寺院


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脚注

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