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款冬山玉章院(かんとうざんぎょくしょういん) 弘善寺(こうぜんじ) 浄土宗

歴史

境内の案内板の内容をそのまま記載する。

井上周防之房(いのうえすぷゆきふさ)の婦人と娘の墓

浄土宗弘善寺は大永年間1521~1528に開山され、黒田二十四騎の一人で黒崎城主の 井上周防之房1554~1634が再興した寺院です。 之房 の夫人と娘の墓は本堂裏手にあります。

之房 の夫人は播州(現兵庫県)志方城(しかたじょう)櫛橋(くしばし)氏の娘で、 法名は玉章院殿光誉法月大姉(ぎょくしょういんでんこうよほうげつだいし)です。

之房 の娘は黒田長政の従兄弟の黒田修理正基(しゅりまさもと)に嫁ぎましたが、 若くして死別したため、ここに葬られており、 法名は覚修院殿享誉凉心妙光大姉(かくしゅういんでんきょうよりょうしんみょうこうだいし)です。

夫人も娘も元和4年1618に亡くなっています。

之房の墓は、岡垣町高倉の曹洞宗龍昌寺にあります。

北九州市教育委員会

このお寺の院号は之房の夫人の法名「玉章院殿光誉法月大姉」からきているのであろう。

山門脇には、「穴生小学跡」と記された石碑が建てられている。 案内板によれば、明治7年18742月弘善寺境内に穴生小学が設置された。 (下等小学(1,2年生)で6歳から9歳までが就学。 この前身は黒崎村岡田宮の宮司波田野直足(号は鷺山)が明治元年1868に開いた「鷺山学舎」で、書道・和歌などを教授した私塾という。) その後、明治26年1893引野(ひきの)校と統合され上津役(こうじゃく)尋常小学校が開校。 これにより穴生校は廃校となる。 以降、この地区の児童は昭和27年1952まで上津役小学校に通学したという。 上津役はこの地より南方、直線距離にして約6km。 6歳から9歳までの児童がこの距離を毎日往復するのは、かなりきつかったのではなかろうか?

山門を出て南側20mほどの所には庚申尊天(天保15年1730銘)と大師堂・薬師堂(いずれも小堂)など多数の石仏がある。

参考:『筑前國続風土記』、『筑前國続風土記拾遺

井上之房の室と娘の墓碑はこのページ下部に掲示しています。

ひとくちメモ

弘善寺は瀬板の森の東端に伽藍を構えている。 本堂の裏手の森にはかなりの数の大楠があり、墓石が点々としている。

井上之房の室と娘の墓碑

墓碑はちょうど本堂の真裏あたりにある。 墓碑を参拝するには、本堂前よりに本堂に向かって左手に進むと要所要所に道標がありそれをたどれば良い。 尚、『筑前國續風土記付録』巻之28 遠賀郡 吉木村の項によれば、井上之房の娘(「學修院」)の墓碑は遠賀郡岡垣町の三福寺にもあったようである(現在もあるかどうかは未確認)。


『筑前國続風土記』巻之14 遠賀郡 上

○弘善寺 浄土宗

款冬山玉章院と號す。穴生村にあり。開山行明覚阿上人、豊後國の人、永禄6年1564に寂す。 むかしは大寺也しと云。井上周防之房此辺を領せし故、その妻の墓あり。 周防夫妻の畫像並寄納せしつき鐘あり。

筑前國続風土記拾遺』巻之34 遠賀郡 利 穴生村

弘善寺アキに在。款冬山玉章院と号す。 浄土宗鎮西派京都知恩院に属せり。 大永年中1521-1527念譽と云僧開基す。 其後井上周防再興せり。

其内室櫛橋氏女の墓あり。 玉章院光誉法月大姉と云。 元和4年16188月23日に卒せり。 其息女奥田修理室の墓も有。 覺修院享譽凉心妙元大姉と云。 元和4年16184月4日に卒す。

之房より23斛霊饌料 3斛山林25000坪寄附ありしが、今は唯山林のミ残れり。 文禄元年1592東照神君肥前名護屋に赴給ふ時に、 當郡馬場山の内、茶屋の原と云處にて當寺6世の僧信譽に短刀を賜へり。 傅へて寺宝とせしが、故ありて今は博多圓応寺の什宝となれり。

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