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東北山() 延命寺(えんめいじ) [延命禅寺] 黄檗宗

歴史

山門脇の案内板の内容をそのまま記載する。

延命寺略歴

恒武帝の延暦21年802最澄入唐に際し九州に下り、 諸方の霊跡を巡拝して航海の安全を祈願した。 その途中豊前国下毛郡の亀山八幡大菩薩の庵に参篭し、 一夜霊夢に感じ寺を山下に建て大菩薩の尊像を安置した。 是が延命寺の起源である。

菩薩の霊験あらたかで参詣の人々の絶えることは無かったが、 その後900年の歳月を重ね荒廃した。

宝永元年1704小笠原2代藩主忠雄公帰依の名僧霊済法印大いにこれを嘆き、 今一度名刹の昔に復興したいと、 再興を忠雄公に願い出て、 正徳元年1711城外の赤坂山上に大伽藍を創建し延命寺をここに移し、 更に足立不老山下より東照大権現宮も移し、 延命寺の住僧は代々東照宮の別当を兼務することとした。

延命寺は小倉城の鎮城の東北鬼門[1]に当たり山号を 東北山と名し、 300石の寺領を賜る。 この時、忠雄公の御生母で深く仏法に帰依されていた永貞院大姉が父君福島正則公の追善供養の為、 城内に諸宗の名僧を召見し千僧会を供養し、 随喜感嘆の余り延命寺の境内に千体地蔵法華塔を建立された。

その後延命寺は青蓮院宮の御配下に移され九州窯払い座頭の総司配置になった。 また赤坂山上の眺望は遠くに霞がたなびき眼下に白帆が往来し、 領内第一の絶景で、忘言、臨海の2亭を築かれ小笠原蔵人の別邸を営む処となった。

この壮大な名刹名場も、慶応2年1866豊長の変[2]の兵火にかかり、悉く灰燼に帰した。

その後明治初年1868黄檗宗の田中芝玉和尚[3]が菜園場にあった 妙行寺[4]を引移し小庵を建て不老庵と名し、 隠遁の居とし豊長の変陣没兵士の霊を慰めた。 芝玉和尚の没後、黄檗宗前管長鷲峰紫石(わしみねきせき)大和尚[5]、 灰燼に帰した旧跡を惜しみ、 元延命寺境内の観音堂に残存する古仏像を現在地に移し東北山延命寺として復興し現在に至っている。 宗派は黄檗宗である。

以下 榊姫記念碑・芭蕉の句碑の記載があるがここでは略す。(作者)

作者は延命寺周辺の地理に疎い為、このお寺の場所の変遷を正確に把握できていない。 ヒントは赤坂(北九州市)-Wikipadiaで、延命寺の記事もしっかり書かれている。 昔は本州との海路の玄関口でもあったようである。 後の課題としよう。

山口県美祢市に「金麗社」なる神社がある。そこにかつて延命寺にあったと言われる一対の石灯籠がある。 その言われについてはここをクリックして下さい。

ひとくちメモ

延命寺の脇は国道3号線が走っている。 山門脇には両側に小さな仁王像、石段を登ると本堂両脇に等身大の仁王像が建っている。 容姿は中国風で独特である。 本堂のデザインも独特な雰囲気である。 本堂屋根の宝珠下には小笠原家の家紋「三階菱」が刻印されている。

どうやら、延命寺付近は中世・近世における九州の交通の要衝にあったようで、 長崎街道の歴史にも関係深いと感じる。 これは今後の作者の学習の課題としよう。

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