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興龍山() 大満寺(だいまんじ) [大満禅寺・塩買観音] 曹洞宗

歴史9 phrases

山門脇の案内板の内容をそのまま記載する。

大満寺は、天正年間1580頃企救(きく)郡古川村(小倉南区徳吉3丁目)に創建された[1]。 細川忠興が藩主だった元和年間1620頃全焼、 後に、魚町南角に移転し、昭和28年1953に当地に移ってきた。

ご本尊はかっては住職一代一度のご開帳という秘仏だった。 現在は本堂の正面に安置している。 この十一面観音は、古い仏像で行基の作ともいわれている。 古川村で本堂が焼失した時、ご本尊だけが焼け残ったという。

このご本尊は「塩買観音(しおかいかんのん)」と言われている。 ある年、雪が連日降り積もり寒くて外に出られない日、寺では塩がなくなった。 調理できず困っていると、 商人が塩を担いできた。 寺の人は不思議に思って、どこから来たのかと尋ねると「曽根から来た。昨日、僧が来て 『小倉城下の大満寺の僧だ。明日、塩がいるので届けてほしい』と銭をおいていった」という。

寺の人や信者は、 ご本尊が行ってくれたのだろうということで、 以後、このご本尊を「塩買観音」と呼ぶようになったそうである。

小倉北区役所

門前の道は旧長崎街道である。

伊藤氏メモ以下は、『北九州の寺めぐり』による。

大満寺は元和年間1615-1624に火災に遭い、これを機に玉山和尚は、古川村からその頃細川公が整備しつつあった小倉城内の魚町に大満寺を移転し、寛永18年1641に寺を再建した。さらに諸役免除を受け、表16間・奥行9間半の寺地を守りつつ、大満寺は以後300年間を魚町で安泰に過ごした。

太平洋戦争中1941-1945、強制疎開にかかり寺地を接収された。以後、敗戦を挟む数年間は、住職と家族は本尊と共に、戦災を受けなかった所縁の寺院をあちらこちら頼っては移転する苦労を強いられたという。 そして現在地に地所を得て、昭和28年1953に寺を再建した。当初、寺地は雑木の山で、ブルドーザーなどの重機も今ほど簡単には使えぬ時代であり、最初の頃はツルハシやクワを振るい、土はモッコで運ぶなど人手に頼って少しずつ平地を広げ寺地を整備するという大変な苦労があったという。()

ひとくちメモ2 phrases

長崎街道探索中に立ち寄った。 白い楼門をくぐって坂道を登ると境内である。 境内には地蔵堂がある。 山門脇には水掛地蔵堂が鎮座している。

伊藤氏メモ広い駐車場の脇には、半球状にきれいに剪定されたツツジが数多く並び、それはそれは見事である。()

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