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左谷山() 建正寺(けんしょうじ) [賢聖坊・賢聖寺] 天台宗

歴史9 phrases

境内の案内板の内容をそのまま記載する。

左谷山建正寺

平安時代初期の延暦22年803、 遣唐使として渡唐の際、筑紫に立ち寄った天台宗の開祖である伝教大師(最澄)は 太宰府の宮寺有智山寺に遣唐船の航海無事を祈願しました。 その翌年に国中の古城巡見した際、熊野権現の神託によりこの地に堂舎・精舎その他の施設を建立し、 大日如来・薬師如来・十一面観音などの仏像を安置開眼しました。 この時点をもって伝教大師は左谷山建正寺を確立したと言われています。

戦国時代の弘治3年1557大友宗麟の支配下に落ちた建正寺は多数あった堂舎を破壊・没収され、 わずかに賢聖坊・印寿坊・教童庵を残すも、 天正14年1560島津軍が大友氏の臣下である杉弾正を高鳥居城に攻めた際、 この地の寺社は勿論のこと、 民家もことごとく焼き尽くされたといわれています。 従って建正寺はこの時期に壊滅的打撃を受けたと推察されます。

その後もなお賢聖坊・印寿坊の名称は残りますが社僧も永住しない状態が続き、 江戸時代の明和4年1767に印寿坊に佐谷坊良弁が入りますが、 幕末には廃寺となっています。

以上、左谷山建正寺の縁起を中心に記しましたが、若杉太祖神社縁起には建正寺の起源を 「聖武天皇の時代、大祖神社の宮寺として建てられた延年太祖山三蔵院の発展に伴い左右の谷に分かれ、 左谷に建正寺西南院、右谷に石泉寺東西院を配置する」云々があります。

いずれも縁起に確たる根拠を欠きますが別記した各文化財等を考え併せると、 全てが根拠のないものとは思えず、その真偽は今後の調査研究で明らかになってゆくことでしょう。

※左谷山賢聖寺とも書きますが、ここでは建正寺と記しています。また、佐谷は左谷が訛ったものと考えられます。

須恵町教育委員会

筑前國続風土記』巻之18 糟屋郡表 左谷右谷の項に記事がある。また、 『筑前國続風土記拾遺』巻之下40 表糟屋郡 下 佐谷村の項に「観音堂」として記事がある。 どうやら有智山寺(竈門山寺)と縁のあるお寺のようである。

ひとくちメモ4 phrases

建正寺は、若杉山と硯石山の谷部、福岡市内より飯塚市へ抜けるショウケ越えの入口あたりの小高い場所に伽藍を構えている。 境内は杉の木をベースの山林に囲まれ、清流も横を流れている。

観音堂脇には、正中二年銘梵字板碑がある。

歴史もかなりのものと見え、寺宝も多数存在する。 下の建正寺関係文化財一覧表を参照のこと。 そのほとんどが須恵町歴史民族資料館に所蔵されているようである。 に訪れたがあいにく夏休みで寺宝を拝むことはできなかった。 また行こうと思う。

伊藤氏メモ佐谷神社の石段を60段ほど登ったところに本殿があり、神社境内は建正寺境内とつながっている。建正寺は本堂自体はないが、 十一面観音菩薩堂、薬師如来堂、大日如来堂、吉祥天堂、子育地蔵尊堂、十三仏、お滝場、正中2年1325銘板碑などがある。 無住が続いているが、[佐谷神社・建正寺世話人会(092-933-1750)]が社務所に詰められてしっかり管理をされている。 福岡県指定文化財となっている木造十一面観音像は毎年4月の第1日曜日が年に1度のご開扉日で、 当日は地元婦人会によるガメ煮やニワトリご飯のおにぎりやお神酒のふるまい接待がされるとのこと。また、十一面観音堂にあるしだれ桜はみものです。()

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