御堂内に掲示された額に入れられた由来を下に示す。西暦・ふりがな・句点は作者が挿入した。 文中、地名("X"とした)と個人名("Y"とした)は障りがありそうなので記号化している。
善應庵の由来
船越善應庵は天正1573-1593の頃、建立されたのですが、高祖城の原田家の家臣に仲西源蔵と云う人がいて豊臣秀吉の九州征伐1586の際に敗北して、城もろとも取りつぶしの難に遭い、浪人して船越の地に来て生活しておりましたが、生来病弱で跛脚[1]でしたので法正寺の弟子となり法名を善應と稱しておりました。
當時 Xの浦にYと云う海賊がいて常に数十人の悪徒を従え、海上から漁村を襲い良民を襲いおびやかして財宝を奪い婦女を辱しむる等暴行の限りをつくし、船越の地にも度々襲来して参りましたので浦人の憂い憂い悲しみは想像を絶するものがありました。
茲に善應は浦人を救うために善應山[2]に遠見の番所を作り、自ら進んで番人となり法螺貝を吹き鳴らして合図して浦人を逃しておりました。
海賊共は後に其の事情を探知して大いに怒り番所を襲い善應を追って久家浦[3]に至り、遂に海辺で之を捕え惨殺しました。
其の後海賊共、再び此の浦に攻めて来た時に氏神[4]の御社より白羽の矢が飛んで来て、Yの眉間を射貫き流石の狂賊も瞬時として絶息したと伝えられて居ます。
浦人等は漁民のために自らを犠牲に供した善應を偲び、一寺を建立して善應庵と稱し今日迄其の霊を弔って参りました。
昭和52年4月5日船越善應庵再建慶讃法要要旨より
平成14年10月27日法要要旨複製保存に際し由来として掲示
地元の方の話によれば、当庵は現在の船越公民館の位置にあったが、公民館建設の為、現在の地に移転したという。船越の浜にも「善應さん」がたっている。
善應庵は船越公民館に向かって左隣の民家の庭先にある。 庵の祭壇は浄土真宗の荘厳。中央に阿弥陀如来、右手に親鸞聖人、左手に法然上人が祀られている。上の「善應庵の由来」も掲示されている。
当庵の前にはコンクリート製の地蔵堂があり、2体の石塔(仏)が祀られている。 向かって左手のほうが「善應地蔵」と思われるが定かではない。
善應庵を探して船越・久家の町内を歩き回り、最後は法正寺の庫裏のチャイムを鳴らし、出た来られた法正寺の先代住職より案内して頂いた。感謝感謝である。 当庵は民家が管理されているようで、お参りは許可を得てのほうが無難である。
久家の町内を善應地蔵を探して歩き回っていた時、この近くの民家の方に最初に教えてもらった場所がここである。「善應さん」と呼ばれていた。
石垣の台座の上の大きな石塔が立っている。表面に何か刻まれているようだが、潮風による侵食のせいか判読不可である。
石碑の前には、榊と法螺貝より一回り小さな貝殻が 供えられている。
石碑の南側は今は広大な駐車場となっているが、これは埋め立てられたもので昔はこのすぐ近くまで波が洗っていたのだろう。
冒頭の「善應庵の由来記」にある、善應が殺された「久家浦」とはこの場所のような気がする。 ただ、町内の別の人は今の船越公民館の場所とも言われた。これ以上の深入りはやめておく。