地蔵尊の傍らの石碑の内容を下に記す。
幽心地蔵尊の由来
福岡藩は、年貢収入を増やそうと雷山川尻の潟地の干拓を計画した。 元禄10年1697辺田(小富士)干拓ができ上がったが、次に加布羅ママから西へ1kmの堤防を築き、南へも堤防が築かれて荻浦下60haの広い干拓地ができた。
まだ西の千早新田[1]の出来るずっと前の事である。 加布里湾の荒波が堤防を何度もこわすので、これは竜神の怒りだという事になり山伏の幽心が自ら犠牲になりおさまる[2]。
その後そのあたりで人魂がでる様になり荻浦の庄屋重富忠助と前原の庄屋垣生喜平次が相談し寛政9年1797幽心を地蔵尊として祀り荻浦と前原と交代で祀りが続けられている。 石は、もとの幽心堤防の石[3]である。
平成5年1993荻浦区で改築された。 その後、平成19年2007垣生喜平次の子孫が由来碑を建立する。
尊像は長年、風雪にさらされた為か少し細くなっているようだ。
当地蔵尊の裏手は広大な田畑となっている。 前には泉川の河口があり、その先には可也山が真正面に見える。 泉川沿いの堤防の上の大木の下には弁天堂がある。
立派な自然石製のお堂である。かなりの歴史のあるお堂と思われる。
幽心地蔵尊の参拝の最中に地元の方と思しき方が2人通りかかったが、 2人共、当弁天堂に手を合わせておられた。