お寺めぐりの友

PC版

染井山() 霊鷲寺趾(りょうじゅじあと) [染井神社] 真言宗

歴史

以下は『筑前國続風土記』巻之22 怡土郡 ○染井山[1]による。

この地は、神功皇后が三韓征伐のおり「此鎧緋色に染るべし。 若勝事を得ずんば、本の色成べし」といい井戸に鎧を浸け、その色が紺色に染まった。その為「染井」[2]という。 また、この地にはその昔には豊玉姫が鎮座され上宮中宮下宮などあり、かなりの霊域であった。

その後、聖武天皇の勅願として 霊鷲寺趾は現在の染井神社(昔は熊野権現社と言った)境内に伽藍を構えていたという。 清賀上人が寺を建立。 その僧舎は42にも及んだ。 薬師堂が本堂であったようである。

『筑前國続風土記』が編まれた西暦1700年頃にはその内1坊しか残っていなかったようである。 『筑前國続風土記附録』(1790年頃)の挿絵には薬師堂・閼伽井坊・地蔵堂などが描かれているが、この挿絵がその時のものか想像図なのかはわからない。

『怡土志摩地理全誌1.怡土編』によれば、明治のはじめ頃には、残っていた仏堂は取り壊され、畑の中に観音堂が残り朽ち果てようとしている仏像が数体わずかに祀られていたという。

現在は境内には、『筑前國続風土記附録』の挿絵に描かれている位置とほぼ同じ位置に染井神社の社殿と、地蔵堂があり、その隣に後に建てられたと思われる十二神将中の1体が祀られた小堂があるのみである。

『背振山系の山岳霊場遺跡資料集』によれば、 染井神社の西側約350mほどのところに染井山 圓學院があるが、これは閼伽井(あかい)坊が移転してきたものという。

参考:『筑前國続風土記附録』境内図解説

ひとくちメモ

霊鷲寺は高祖山の西側山麓に伽藍を構えていた。『筑前国続風土記』によれば染井神社の下にあったとされるが、今はその場所は定かではない。 ただ、神社下に石仏が安置されている小堂が2つあるのでこの辺りにあったのかもしれない。

貝原益軒も書いているように染井神社参道は苔むしていて静かなたたずまいである。 人気(ひとけ)がほとんど無いので単独行は避けたほうが良い。

参道の途中の土手の中腹には地蔵堂がある。 霊鷲寺趾の北西約350mのところに染井の井戸がある。

伊藤氏メモ2堂並んで建っているのが幸いと思わせるような寂しい場所での佇まいでした。()

境内図解説

『筑前國続風土記附録』巻之41 怡土郡 上 染井山の項の挿絵を右に掲示する。 現代の境内とよく対応が取れる。図中に○印で番号を振っている。 下表にそれぞれの場所の解説する。

No.名称解説
旗染松 『風土記』では「其木の本、周匝(めぐり)5圍、甚大なる樹也。枝葉甚だうるはしく繁り栄えて、他木に異なり、受賞するに堪たり。枯葉なくして弱木(わかき)の如し。篤信(かつ)て諸國を經歴せしに、かゝる松はいまだ見侍らず。」と絶賛されている。
『付録』1770頃では、「経かけの松ともいふ。社司樹下に石碑を建て鎧掛松と彫めり。謬りなり。 鎧掛の松ハ高麗寺村の内にありしか、慶長1596-1615の比枯れて其跡さへ定かならす。寶暦1761-1764の比迄ハ枝葉猶栄へ、ことに美しく繁りしか、今ハ枯木となれり。惜てもなお餘りある事に侍る。」と書かれている。
現在、社殿の裏手の覆屋の中に松の巨木の枯木が覆屋の中においてある。この松の前に「鎧掛松」とあるが、この松の木のことであろうか?だとすれば、枯れてから420年ほど経過しているが、ちゃんと松の木と確認できるように保存されている。在りえないと思うが。。。
社殿 当時は「熊野権現」と呼ばれていたが、現代では「染井神社」と呼ばれている。現在でもほぼこの位置にある。
薬師堂 『風土記』では「聖武天皇701-756の勅願として、清賀上人此地に始て寺を立、僧舎42坊を作りて、染井山霊鷲寺と號して、薬師堂を安置せり。(中略)夫より後は偏に寺院と成て、神社は側に残り、佛堂は本殿のごとくなれり。」とある。
『付録』では「山下に薬師堂3間四方あり。染井山霊鷲寺の本尊長3尺餘の坐像なり。脇立3尺餘十二神将長各1尺8寸ミな清賀作といふ。彌陀の木像もあり。行基の作にして湯屋坊の本尊なりしを、こゝに安置せりとそ。又十一面観音をも安置せり。」とある。
この薬師堂が霊鷲寺の本堂と思われる。
地蔵堂 『風土記』『付録』共に記述が無い。図では1宇であるが、現在でもこの位置と思われる所には小堂が2宇ある。 向かって左手の小堂には十一面観音像と地蔵菩薩像が安置されている。右手の小堂には、真新しい十二神将中の1体が安置されている。台座に「十二神将」「古来より十二神将が祭られていたが盗難に遭いこの尊像を刻んで祭る」「昭和48年4月建立」と漢文で記された銘あり。
閼伽井坊 『付録』に「社僧を閼伽井坊」という記述がある。
匍匐松 『風土記』に「薬師堂の前に老樹の松2樹有。2樹共に其枝道に向ひ右に轉じて、甚奇異なる霊木也。地にはへる如くなれば、是を葡萄松と云。」との記事がみられる。
『付録』に「薬師堂の前に匍匐(ハヒ)松あり。一方の枝枯れ残れるを、社僧むけにかく刀鋸をくだせるハ、いと(おろ)そかなる事こそ。」との記事がみられる。
現在はその松は痕跡も確認できない。
神池・石反橋 『風土記』『付録』共に記事は無い。
「神池」の名称は、『怡土志摩地理全誌1.怡土編』の記事によった。

地蔵堂

地蔵堂は境内への入口の三叉路脇の土手の中腹にある(当ページ最上部の地図を参照)。 手すりのついた石段の上である。 御堂内には地蔵菩薩像と五輪塔が安置されている。 その向側に庚申塔が立っている。


染井の井戸

染井の井戸は、染井神社参道入り口の染井信号より300mほどR56を北上したところにその入り口がある。 以下に井戸脇にある案内板の内容をそのまま記す。

染井神話

ここの井戸の名を、染井の神水といい、糸島の古代が語られています。

「日本書紀」は仲哀天皇の皇后を神功(じんぐう)皇后(息長足姫尊(いきながたらしのみこと))といいます。 九州地方に、クマソ一族が強い勢力を持っていたという時代。

大和朝廷の威力を広げるため、奈良を出発して天皇の軍隊は、クマソとの戦いで仲哀天皇が、敵の矢にあたり陣中で亡くなられます。

クマソの勢力が強いのは、新羅(しらぎ)(朝鮮半島東南部)の後押しがあるからだと判断され、玄界灘を渡り新羅へ軍を進めようとされました。

皇后の軍が、怡土の山麓に本陣を置いて、滞在されたときは、大和の国を出て、すでに2年あまりが過ぎていました。

仲哀天皇は亡くなられ、将兵は悲しみと、戦いの旅に疲れ果てて、故郷恋しさの思いが全軍の心を重たく包んでいたのです。

皇后は、みずからも男装し、悲しみをのりこえる勇気を奮い立たせるため、将兵たちに一つの奇跡を祈ろうと思われました。

ある朝、皇后は将兵をつれて近くの泉に行かれ、一つの白生地のヨロイを手に高くさし上げて見せられました。 このヨロイは、九州の朝倉の戦いで亡くなられた夫、仲哀天皇のまだ使われていないヨロイの一つです。 「皆の者、われらの天皇の意志を継ぎ、今遠く海を渡り、新羅の国に進もうとしている。 昨夜、不思議な心霊のお告げが私に現れた。もし、この泉でヨロイが赤く染まることがあれば、この戦いは必勝である。 万一染まらないならば望みがなし。早々に軍を引き返したが良いとのお告げ。みなの者、心を静めて見つめるがよい。」

ヨロイは全軍が見守る仲、静かに泉の中に沈められます。

一刻、二刻の後、再びゆっくり引き上げられたヨロイに、奇跡が起こりました。真清水の泉から現れた白生地のヨロイは、 色も鮮やかな真紅色に染まってキラキラと、したたり輝いているではありませんか。

「勝ちいくさだ。」皇后も将兵も吾を忘れて朝空に叫びました。

うち沈んでいた全軍の士気が、ふるい立ったのは、もちろんです。

ヨロイは、やがて近くの松の枝にかけて干されました。この松は古来より「ヨロイ掛けの松」[3]と称し、見事な枝ぶりの巨樹となり、 近くの染井神社の境内に生存したことを「筑前国続風土記」に貝原益軒が書いています。

近年になりこの松は枯死し、その幹株が染井神社に保存されています。

この後皇后の軍は西(二丈町)へ向かって出発し、深江の子負が原(こぶがはら)海岸で必勝と海路安全と安産を祈り二つの 玉石を懐中にして船出されます。

軍が日本へ帰還の後、皇后が御出産されたのが応神天皇と神話は伝えます。

安産祈願を懐中された石を祀ったのが、鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)です。

軍が深江へ向かう途路「飯原」で駐屯された時、雉の鳴く声が琴の音のようにひびいたという吉兆の場所 雉琴神社が現存しています。

神功皇后に関する伝説神話は、瀬戸内海から北部九州沿岸にいたる所に、鞍かけ石、馬つなぎ石、■置石、船出浜 など数多く遺跡が点在します。

染井神社は、神秘を秘めた古式の雰囲気を今も山中にただよわせる社です。

福岡藩六代藩主継高はこの地に遊び神水を汲み、歌を献じています。

濁りなく昔をうつす鏡とは けふぞ初て三染井の水 前原市


『筑前國続風土記』巻之22 怡土郡の記事

○染井山

高麗寺村の内也。染井山霊鷲寺有。其上に熊野権現の社有。

里俗の傳に曰、神功皇后三韓を討給はむとて、此山に臨幸ましゝて、 井のほとりに来り給ひ、異國を討んに勝利を得べきならば、此鎧緋色に染るべし。 若勝事を得ずんば、本の色成べしとて、鎧を井の水に浸したまひければ、忽緋に 染りぬ。其鎧を染給ひし井なりとて、染井と名付て今に在。 此井は染井の本社へ行道側、谷の方に在。本社より西に當る。其廣は方3尺6寸在。 此故に染井山と號す。(さて)右の染給ひし鎧を、山の上なる松木に懸て干給ひける。 此松は鎧懸の松とて、慶長1596-1615の初迄大木ありしが今は枯てなし。

其松の在し側に緋威の石とて有。其石長5間、高2間、上の平なる處、疊3疊を 敷くばかり、少しかたぶける所又同じ。凡6疊を敷くばかり有。緋威の鎧を懸給ひし松 の側に在故に、緋威の石とは云成べし。

又薬師堂の後の山に、旗染松(とても)大なる松有。 其木の本、(めぐり)匝五圍、甚大なる樹也。枝葉甚うるはしくり榮えて、 他木に異なり、愛賞するに堪たり。枯葉なくして弱木(わかき)の如し。 篤信會て諸國を経歴せしに、かゝる松はいまだ見侍らず。 山州日の岡の千本松、摂州住吉の津守の庭松、播州會根の松、明石の老松、 高砂の尾上の松、相州金澤の筆捨松、江州唐崎の一松(など)、いづれも奇異なれど、 美はしき事は是に及ぶべからず。是は神功皇后旗を染て干し給ひし故に此名有。

是を以、又薬師堂の前に老樹の松二樹有。二樹共に其枝道に向ひ右に轉じて、 其奇異なる霊木也。地にはへる如くなれば、是を葡萄松(はひまつ)と云。其末は又両枝共に高くのぼり、 聳えて相向へり。摂州住吉の社官津寺氏の宅中、神功皇后■正印殿の前なる老松は、津守國基初植しかば、すでに600年 に及ぶと云。此松も彼の木成べし。

此山昔は豊玉姫鎮座ましゝ、上宮中宮下宮とて三所をしめ、神庿尊くして、さばかり繁栄の地也しとかや。 今は唯其名のみ残れり。其後聖武天皇の勅願として、清賀上人此地に始て寺を立、 僧舎四十ニ坊を作りて、染井山霊鷲寺と號して、薬師堂を安置せり。

(中略)

夫より後は偏に寺院と成て、神社は側に残り、佛堂は本殿のごとくなれり。 昔は此社に神領も多く寄附せられ、舊き文書など多く有しが、明應8年1499凶族亂入して散失せし由、 大内家の文に在。42坊も絶て、唯一坊のみ残れり。阿閼井坊、石橋坊、湯屋坊、能■坊、中坊、寮所坊、などは其名残れり。 其餘は名さへ定かならず。阿閼井坊、昔の築山の址有。湯屋坊の池は雪舟繪をかきて掘せたりと云。長3間許、横2間許、水たまれり。

凡此地の風景佳なる事他に異なり。尤遊見して幽賞すべき霊地也。 凡怡土志麻両郡に五佛とて、名像五所に在。東は染井山霊鷲寺本尊薬師、 南は、雷山千如寺本尊観音、西は、 一貴山夷巍寺本尊阿弥陀、 北は、登志山誓願寺今津に在本尊釈迦、中央は太租山大日寺[4]本尊大日也泊町に在り

関連地図

脚注

関連寺院

Top