お寺めぐりの友

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() 野村望東尼御堂(のむらもとにみどう) 不詳

歴史

Linksのページによれば、福岡藩の攘夷派弾圧の政策により、慶応元年186510月、姫島に流罪となる。 翌年9月、高杉晋作の指揮により姫島を脱出し、下関に(かく)われ、晋作の最期を看取る事となる。 姫島では丸1年獄中生活を送ったことになる。

その後、毛利家より厚遇され長州に滞在したまま薩長連合軍の戦勝祈願の為に行った断食がたたり、慶応3年、62才で死去したという。

姫島での獄舎は4畳、畳もなく板敷きでござが敷かれているだけだった。 着物、風呂敷などを張りめぐらして冬の寒さをしのいだ。 ムカデやクモの出没に悩まされたり重い病にかかり衰弱状態に陥ったこともあった。 この獄舎での日々を支えたのは島民の暖かい思いやりだった。 禁止されていた火をこっそり用立てたり、家族への手紙を届けてくれるものもあったという。

現地には昭和56年まで望東尼が描いた獄舎の図をもとに復元されたものが建っていたが、それは壊され、現在は替りに御堂が建てられている。

ひとくちメモ

御堂は島の西側である。おそらく当時は民家が途切れるあたりであろう(現在もこの少し先までしか民家は無い)。 現在の海岸線からの距離≒80m。標高≒15m。 当時の海岸線の場所を知る術はないが、獄舎から海岸線までの距離はそんなに遠くなかったと思われる。 冬の冷たい季節風(西風)、それに波しぶきも時折吹きつけていたことは容易に想像できる。

獄舎が海岸に向かって建てられていたとすれば、獄舎から見える景色は肥前唐津の海に浮かぶ島々だけであったであろう。 筑前領は見ることができなかったと思われる。彼女の心細かった気持ちがひしひしと感じられる。

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