お寺めぐりの友看板

PC版

飯塚山()太養院(たいよういん)[太養禅院]☆☆☆曹洞宗

歴史

その歴史については、長崎街道飯塚宿の概要に『筑前國続風土記』の記事を記載している。 ここでは、『筑前國續風土記付録』巻之24 穂波郡 下 飯塚村の項を下に記載する。(段落、西暦年号、「」は作者が挿入した)

太養院(洞家 佛堂3間6間 福岡安國寺の法中也)

浦町に有。 はしめハ器運山香積寺太養院と號せしか、慶長5年(1600)國君の命により飯塚山と改む。

この寺に長政公の尊像を蔵む。 慶長2年(1597)公再ひ朝鮮に赴かせ給ふ時、此寺にやとらせ給ひぬ。 此時寺僧勝栗を奉りしに、公「此寺の産にや」とわせ給ふ。 寺僧、「是は鞍手郡勝野村と申所にて候」と答へ奉る。 公「物と云ひ、出所と云ひ、出陣の門出には吉端なり」とて、ことに感悦し給ひぬ。 寺記に見へたり。

此寺の本尊観音佛ハ天平2年(730)行基の作也と云う。 本編に見ヘたる功傳ハ元和2年(1616)9月に叙せり。(境内に墓有) 寺内に秋葉社・天満宮・地蔵堂2宇・弁財天堂・経塔有。

参考:『筑前の寺めぐり』

ひとくちメモ

太養院は長崎街道であった本町商店街のアーケード脇に伽藍を構えている。 山門を出て、狭い路地を60mほど進むとそこは本町商店街のアーケードである。長崎街道はここを通っていた。

伊藤氏メモ門前の説明板によれば次のとおりである。 「今から約1300年前に行基を開祖として曹洞宗の寺院として開かれたが、 約700年前に鎮西の宗祖聖光上人が器運山香積寺と命名した。その後、香積寺は太養院と改称され山号も飯塚山とされた。 本尊は秘仏とされる聖観音坐像であるが、その他にも木彫りの十二尊天像が安置されている。」 また、朝鮮出兵時以外にも「黒田官兵衛と長政の親子は、 1600年に中津から筑前52万石へと移るときにも当院に約1か月滞在した。ここで博多の様子を伺い、 それから八木山峠を越えて博多の名島城へ入ったといわれている。」 門前は寺町の雰囲気が漂う。()

『筑前の寺めぐり』

伊藤氏メモ寺伝では、この寺の始まりは行基菩薩が諸国行脚の際この地に一宇を建立、自ら刻んだ仏像を安置したことによるという。 それが太養院本尊の聖観世音菩薩で、天平2年(730)行基菩薩作の銘が墨書されているという。その後しばらく「寺の伝え」は無いが、平安末期に聖光上人が明星寺村に西の高野と称されるほどの大伽藍明星寺を再建のとき、ここで食物を調えたことが太養院の寺名の起こりと『筑前國續風土記』は伝える。

寺地は昔、飯の山(いいのやま)という丘の上にあった。穂波川西岸にあり、江戸時代には長崎街道の飯塚宿にあったが、寛永17年(1640)、藩主の御茶屋建立のために現在地に移されたと伝えられる。

慶長7年(1602)寺産十石が永代下賜される(『太養院文書』)など黒田藩主の外護厚い寺となる。太養院では興伝宗樹和尚を飯塚山太養院の開山としている。黒田長政公が筑前入国直後の慶長7年(1602)から翌8年にかけて行った領内の検地には太養院も協力し、住職の興伝和尚が奉行の資格で穂波郡・嘉麻郡・夜須郡・御笠郡などの検地に立ち会い、検地に使う道具に和尚の名を冠した興伝竿が秋月領に伝わるという。

太養院には、明治初年(1868)の神仏分離令で廃寺となった太宰府の天満宮安楽寺から移った木彫十二尊天の像が祀られている。(『筑前の寺めぐり 』より)()

関連寺院


周辺のスポット(4km以内)

周辺の寺院・仏教施設の検索は当ページの上部の「4km範囲寺院」のボタンをご利用下さい。


Top