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和光山寂定院(わこうざんじゃくじょういん) 明正寺(みょうしょうじ) 浄土真宗本願寺派

歴史

伊藤氏メモ 鎌倉幕府を攻撃して事実上滅亡に追い込み、後醍醐天皇による建武新政樹立の立役者の一人となった新田義貞1301-1338。 しかし、建武新政樹立後、同じく倒幕の貢献者の一人である足利尊氏と対立し、尊氏が建武政権に反旗を翻すと、後醍醐天皇により事実上の官軍総大将に任命されてこれに対抗したが、最期は越前北陸の藤島で戦死した。新田義貞とともに足利尊氏と戦った当寺の先祖は、北陸・福井の杣山の里より、当地飯塚に家臣共々落ちのびてきた。その数およそ300人ほどと言われるが、明治期の大火でことごとく記録が焼失し、確かなものは残っていない。 そのとき、戦での多くの戦死者の供養として坊舎を建てたのであろう。最初は天台宗であったが、後に蓮如上人1415-1499の弟子の教化を受け真宗に転派した。

当寺は、東本願寺初代の教如上人1558-1614から明正寺という寺号を戴き東派(大谷派・東本願寺)であった。ところが、黒田如水の葬儀の際に調経についたとき、黒田側より西派(本願寺派・西本願寺)に変わるように要請があった。色々と理由は伝えられているが記録には何も書かれていない。以来、当寺は本願寺派として現在に至っている。(「当寺HP」などより) ()

明正寺の北隣に大名の本陣があったため、明正寺の前は勢屯り(せいだまり)であったという。 また、過去帳に長崎から長崎街道を登り江戸幕府へ献上された象が通ったことが記されているため「象の寺」とも呼ばれているという。(「当寺HP」より)

ひとくちメモ

山門・本堂・鐘楼共どっしりとした構えである。 境内には立派な屋根のついたテーブル・椅子がある。 参拝者にはやさしい心配りである。

拾遺』に記載されている輪蔵は確認できなかった。

伊藤氏メモ1600年頃の創建。現第21世。 よく見ると、山門の上部内側には、本堂側に「通」の文字が、門前側に「圓」の文字が記されているのが分かる。 これは、[どなたでもお入りください。]の意であるとの由。 門前には[勢屯り跡]の碑がある。和光幼稚園を併設。()

筑前国続風土記拾遺』巻之27 穂波郡 上 飯塚村の項

明正寺

本村に在。真宗西本願寺末也。 寺説に曰。開基の僧を了鎮といふ。 其祖先は越前に住し瓜生氏也。 一時赤間関に移り氏を改て伊藤左衛門尉義直と称す。 いく程なく筑前に来り此村に居り真宗に帰依す。 本願寺實如上人より名号を授かり、法體して了鎮と号し草庵を結ひて佛像を安置す。

夫より4世善明迄ハ東派に属す。 慶長9年1604故有て西派と成。

此時準如上人より興雲公に報せし書翰2通、及岩崎平兵衛添簡1通あり。寺に蔵む。 又高樹公の時賜はりし馬具を持傅ふ。 寺内に輪蔵鐘楼あり。 東郡の好寺なり。 檀那當郡及び嘉麻 穂波 鞍手3郡にて800件計あり。

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