伊藤氏メモ門前に最近設けられた案内板の内容をそのまま記します。
長圓寺はもともと清月寺という名称で弥永村(朝倉郡筑前町弥永)にありました。 その始まりは慶長初期(1600年頃)と思われ、官兵衛の弟である兵庫助利高を弔うため、子息の黒田政成が開基しました。 1609年(慶長11(ママ))に平尾山へ移され、現在地には1619年(元和5)の移築と伝えられています。 開山は曹洞宗の僧侶、生雄宗誕で、 第2代藩主の忠之とその母である栄に招かれ、青龍山長圓寺と名称を改めました。 栄姫は宗誕和尚に実父である保科正直の遺骨と実母である多却の遺髪を預け、供養を託しました。 宗誕和尚は長圓寺を礎に、蓮池に明光寺(吉塚に移転)を再興。 ここに改めて保科夫妻を納め、双方でお祀りしました。
現第21世(平成15年(2003)晋山)。
境内に古い石柱が立っている。表面に仏像らしきものが刻まれているが、風化のため判明できない。 小宮邦雄氏の『長円寺と香正寺』には、その石柱は十字架のようで、隠れキリシタンの偶像ではないか、とある。
当寺は黒田家との関係が深く、キリシタンと如水公との関係、そして、その子長政もその信者であったことを考えれば、当寺に隠れキリシタンの碑があってもおかしくないという。
伊藤氏メモ墓域には、玄洋社の社長であった箱田六輔の墓がある。本堂北東角の所から北へ進み3基目の墓である。多数の裂傷痕が入った大きな自然石で出来ており東を向いている。墓石足元には低木が生えている。墓碑の刻字は読み取りづらいが、墓自体はたやすく見つけることができる。()
参考:『筑前國続風土記』
長圓寺周辺はお寺が集中している。周囲は近代的な街並みとなっている。 山門脇には地蔵堂。 境内には栄姫廟の他、多数の石仏が安置されている。 上の『福岡寺院探訪』に記されている「キリシタンの碑」は山門をくぐって左手にあります。
『筑前國続風土記』によると本寺は2度移転している。元々、青月寺といい、 夜須郡彌長邑[1] にあった。当寺の開山は華渓和尚と云う。 華渓和尚の弟子宗誕和尚[2]が 二代藩主黒田忠之 の命により、夜須郡より寺を移して、警固[3] 村の南の山上に創建し、現在の名前の長圓寺とした。 正保2年(1646)、忠之の命により現在の地に移転した。
周辺の寺院・仏教施設の検索は当ページの上部の「4km範囲寺院」のボタンをご利用下さい。