お寺めぐりの友

PC版

清賀山() 正覚寺(しょうがくじ) [油山観音] ★★★ 臨済宗東福寺派

歴史

正覚寺の寺伝では清賀上人(せいがしょうにん)が開いたとあるが、『筑前國続風土記』巻二十一によれば、 清賀上人は聖武天皇(在位:724-749)の時代に油山に住んで油を製造していてその為に山は開いたが、 本来の意味での開山は、時代は下って正覚寺の場所にあった東油山泉福寺の開山である平田慈均(へいでんじきん)和尚[1]であると言ったほうが良いように考えられる。 東油山泉福寺開山は平田和尚の在世期間から類推し14世紀半ば頃と思われる。

平田和尚はそれまで法相宗であったのを禅宗に改宗した。

東油山泉福寺は往時は360の僧坊を抱えていたと言う。それがおそらく戦火にかかって焼失してしまい、 本尊である観音様の像と茶堂のみ残ったのであろう。

その後、寺伝のとおり元禄7年1694承天寺の住持大川禅師が跡地に現在の正覚寺を興した。 正覚寺の名前は当時志賀島にあった廃寺[2]であった寺の名前を借りて命名されたと言う。

下に境内の案内板の内容をそのまま記す。

寺伝によると、大和時代に清賀上人(せいがしょうにん)が白椿に千手観音(せんじゅかんのん)を刻んで安置して寺を開いたといわれる。 また灯油の製法が知られていなかった時代、椿の実を絞って油による灯火の法を開いたといわれ、これが油山の名の起こりとなっている。

その後、多くの寺が建ち、仏教文化の中心となって栄えたが、天正年間1573~1591の兵火で消失し、 元禄7年1694再中興(さいちゅうこう)された。

寺宝には、 木造聖観音坐像(もくぞうしょかんのんざぞう)(重要文化財)、 大川円詢像(だいせんえんじゅんぞう)(絵師。狩野友元重信)、 釈迦十六善神(しゃかじゅうろくぜんしん)(室町時代) がある。

平成6年には、雲雀(ひばり)観音堂が新しく完成した。

参考:はこちらもご覧ください。

ひとくちメモ

城南区油山の中腹に伽藍を構えている。境内には美空ひばりを祀った「ひばり堂」もある。 正覚寺の周辺は自然で一杯である。交通の便は悪いが一度足を伸ばしてはいかが?

鐘楼も自由に(多分)叩くことができます。 ただし、お賽銭は入れてください。

境内には美空ひばりを祀ったひばり観音堂がある。 また、観音堂前の石段脇から坂道を登った所には坊住跡がある。

伊藤氏メモ慣れない坂登りで苦労しました。この日は、2月というのに時期外れの最高気温20度という春のような気候で、 汗だくだくのお参りとなりました。 美空ひばりの雲雀観音堂の中にある美空ひばりの写真はほんといい笑顔をしていますね~。ほんとうにステキな表情です。 この観音堂には面白い趣向が。ひばりの歌声が聴けるのです。 代表曲が10曲ピックアップされており、100円玉を入れると選んだ曲が流れてきます。 私は[川の流れのように]を選びました。屋外で、しかも眼下には福岡市内が展望できる広々とした空の下で、 隣近所に遠慮することのない大きさの音で流れてくるひばりの歌声は最高でした。()

寺宝

行事

※行事はどなたでも参加自由とのこと。

正覚寺の梵鐘

伊藤氏メモ鎌倉時代に造られた正覚寺の梵鐘は、現在山口県の防府天満宮にあり、国重要文化財の指定を受けている。正覚寺ではしばらく小さな梵鐘を使っていたが。昭和60年198511月に京都から大鐘「幸福の鐘」が届き、紅葉の中おごそかに落慶式が行われた。また、鐘楼堂は平成5年1993春に改築された。(『福岡歴史百景 』より)()

ひばり観音

境内の案内板の内容を引用する。

ひばり観音の由来

ひばり観音とは、平成元年6月24日、多くの人々に愛され、惜しまれながら、52歳で亡くなられた偉大な国民的歌手、美空ひばりさん(女性ではじめての国民栄誉賞を受賞)の歌「悲しい酒」を平成3年2月、福岡市在住の彫刻家、 松尾宇田(まつおうでん) さんが、ラジオから流れてきたのを聴き強く感動、ひばりさんの魂に触れたような気がし 、その気持ちを像として表すことを決意、「悲しい酒」を繰り返し歌い、そして涙を流しながら、 四五晩夜を徹して制作、一気に作り上げ「ひばり観音」と命名された。

またここ福岡の地は、済生会福岡総合病院で、一度は命をとりとめたり、 多くのファンに埋め尽くされた公演場所など、縁の深いところでもあります。

その福岡市街や博多湾を一望する景勝地.油山観音正覚寺に奉納され、 石こう像として公開、同年6月24日のひばりさんの命日には参加者全員で名曲「川の流れのように」を合唱し、つづいて焼香、開眼式と三回忌法要を厳修、同時に”ひばり観音を守る会”も結成された。

その後、石こうの乾いた平成4年1月、松尾さんを始め、ひばり観音を守る会のメンバーで話し合い、この像を基に富山県高岡市の原型師に依頼、美人で慈愛と品位に満ちた、美空ひばり観音立像(蓮台も書めて高さ68センチ重さ15キロ)の未来永劫の菩薩が青銅で遂に完成、同年4月29日お厨子に納め、魂移しを謹修、6月24日のひばり観音供養祭から、一般公開された。

さらに、全国の539名、六百四十四万三干三百三十三円のご喜捨により、平成6年11月11日.京都大本山東福寺派管長を導師に雲雀堂(ひばりどう)が落成した。

私たちに大きな夢と希望を与えて下さった、不死鳥、美空ひばり(本名 加藤和枝)さん法名、慈唱院美空日和清大姉 霊位どうぞ安らかに、そしてファンはもとよりひばりさんのように、人の琴線に触れるような歌手を目指す人たちの、心の支えにも成ればと希望しています。

-- ひばり観音を守る会 --


坊住跡

設置されている案内板の内容を下に記す。

坊住跡

敏達天皇(びたつてんのう)の勅願により東西油山に720の僧坊(勉強部屋)が建立されたが、戦国時代(天正の頃)龍造寺隆信との戦いで兵火に見舞われ、 全山灰燼に帰した。現在油山観音正覚寺参道左側檜林に僧坊の一つで石垣のみが残っている。

参考資料

伊藤氏メモ寺伝によると、油山観音正覚寺の開山は西暦572年に天竺(インド)から渡来した清賀上人である。また、ここの観音様には次のような言い伝えがある。 清賀上人は油山の白椿の大木から仏像を3体お造りになり、一体がここ油山観音、他の2体は西区光明寺の小田観音と糸島市千如寺の雷山観音という。

往古の油山は天皇勅願で、七堂伽藍を備え、東と西の油山に720もの僧坊を持つ大寺院であった。南北朝時代には浄土宗の二祖で、後に鎮西派開祖となった鎮西上人1162-1238が座主の頃は、学徒席を争うほどに繁栄したという。このように油山は仏教文化の一大法域であったらしい。

また、延元2年1337平田慈均禅師が座主の時代に油山の東西の坊を統一した。しかし、天正年間1573-1592に佐賀の龍造寺の兵火で寺は焼失したが、聖観音・不動明王・毘沙門天・龍樹権現などの木造仏だけは難を逃れたという。

黒田長政公が筑前に入府後の慶安3年(1650)、2代藩主の黒田忠之公が観音堂・拝殿・楼門を再建、寄進した。また、宝暦7年1757と寛政元年1789には本堂と拝殿の修復をするなど、藩主の篤い庇護を受けた。

現在の本堂は昭和45年1970承天寺の大道圓明禅師が兼務の頃に建立されたものである。

(『筑前の寺めぐり 』より)()

脚注

関連寺院

Top