お寺めぐりの友

HOME PC版

安國山() 聖福寺(しょうふくじ) [聖福禅寺・聖福至仁禅寺] ★★★ 臨済宗妙心寺派

情報標高:7.7m

概算標高

7.7m   

備考

歴史12 phrases

境内の案内板の内容をそのまま記載する。

聖福寺の歴史

聖福寺は山号を安国山(通称安山(あんざん))、寺号を聖福至仁禅寺(しょうふくしじんぜんじ)といいます。

開山は千光祖師明庵栄西禅師(せんこうそしみんなんようさいぜんじ)です。 建久6年1195源頼朝公より、この地を賜り、頼朝公を開基として創建された日本で最初の禅寺です。 また後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟」(山門の楼上に提示)の号を賜っています。

栄西(ようさい)禅師は、 この寺を建てるまでに二度宋に渡り、二度目に渡宋した折に中国の虚庵(きあん)禅師より印可を得、臨済宗黄龍派(りんざいしゅうおうりょうは) の法を継承して建久2年1192に帰朝しました。 宋の孝宗(こうそう)皇帝より「千光(せんこう)祖師」の号を賜っています。

聖福寺以外に京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺などの禅院を造営し、 『輿禅護国論』など多数の著書を著して禅の宣揚に努めるとともに、 香椎に建久報恩寺を建てて日本で初めての菩薩戒による布薩会を行いました。

また栄西禅師は宋(中国)より「茶」を持ち帰り、当寺境内や背振山などに植えて、 各地に広めました。同時に宋風の喫茶も伝え『喫茶養生記』を著して茶文化の先導的な役割を果たしています。後に「茶祖」と呼ばれる所以です。

栄西禅師の没後、室町時代に入って、聖福寺は五山十刹(ごさんじゅっさつ) 制度の十刹第三位(後に第二位)に序せられ大いに興隆しました。初め建仁寺派に属し、江戸時代に、 黒田長政公の命により妙心寺派に転派していますが、聞創以来八百余年 現在の住持である第133代白峰老師に至るまで連綿と法灯が護られ、禅の専門道場として厳しい修行が行われています。

聖福寺の境内地は、創建当初、鎌倉幕府源碩朝公より方八町を戴き(「栄西ロ上書(ようさいごんじょうしょ)」)、七堂伽藍を建立して、丈六の釈迦・弥勒・弥陀の三尊を安置していたと伝えられています。 塔頭も三八院(現在は六院)を数えました。 その後数度の羅災を経ながらも.その都度再建がなされています。

かつて境内地の一部は寺中町(じちゅうまち)を形成していたと言われ、「安山借屋牒(あんざんしゃくやちょう)1543によれば当駄312人の借屋人がいたと記載されています。今に残る普賢堂・中小路・魚町・店屋(てんや)蓮池(はすいけ)西門(さいもん)などの博多の地名は当時の寺中町からのものです。天正15年1587太閤町割により寺域も方四町狭められ、ほぼ現在の伽藍の配置になり、 山門、仏殿、方丈、庫裡、禅堂などの禅宗様式の七堂伽藍が立ち、周りに勅使門、開山堂、護聖院(しょうごいん)、 経蔵や塔頭が立ち並んでいます。 昭和44年1969に境内一帯が国の史跡に指定されています。

栄画禅師以来の歴代の住職の中で最も有名なのが、『博多の仙厓さん』として知られている 僊厓義梵禅師(せんがいぎぼんぜんし)1750~1837です。 寛政元年1789に聖福寺の住職になり、文化8年1811に隠居して稜、虚白院(きょはくいん)で酒脱な禅画を描き、機知に富んだ詩句を用いた教えを説いて、人々に親しまれました。 聖福寺は次の寺院と安山一派をなしている。

山内(塔頭)寺院
幻住奄圓覚寺節信院瑞應奄西光寺廣福奄
山内付寺院
戒壇院(大宰府)、 泰清寺(小倉)
東部寺院
勝楽寺(箱崎)、 長性寺(箱崎)、 光國寺(土井)、 清谷寺(久山)、 報恩寺(香椎)、 如意輪寺(香椎)
西部寺院
天福寺(油山)、 常楽寺(今宿)、 龍松寺(周船寺)、 荘厳寺(前原)、 徳門寺(宮浦)、 東林寺(唐泊)

伊藤氏メモ神屋貞清(宗湛)は、聖福寺の109代住持・景轍玄蘇(けいてつげんそ)が母方の伯父という関係もあり、漢詩会によく出かけ博多商人や文化人と交流した。天正14年1586、京都大徳寺にて古渓和尚を戒師に出家し(以降「宗湛」と号する)、商人身分から僧籍に入ったことから、上層武士との交流が自由になった。(『福岡歴史がめ煮 博多区・中央区編 』より)()

ひとくちメモ2 phrases

作者の訪問回数がダントツなのが聖福寺である。所用で近くを通ると必ず聖福寺の仏殿前の階段で一休みする。春夏秋冬季節感が味わえる場所である。 観光客と思しき人たちの姿もよく見かける。 春はしだれ桜が数は少ないが美しい。夏は緑が楽しめる。 境内にある護聖院[開山堂]も見ものである。

山門の掲額「扶桑最初禅窟」は後鳥羽上皇(法王)の(しん)筆。 室町時代には臨済宗十刹の第三位に列した。 歴代住持のうち、遣明正使として活躍した頤賢硯鼎(いけんせきてい)、天正・文禄年間朝鮮修交に尽くした景轍玄蘇(けいてつげんそ)、文化・文政年間書画をもって衆生を済度した 仙厓義梵(せんがいぎぼん)は著名。(「博多に強くなろう」より)

関連寺院33