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横岳山(おうがくざん) 崇福寺(そうふくじ) ★★ 臨済宗大徳寺派

歴史

山門前の案内板の内容をそのまま記載する。

当寺は、詳しくは、「横岳山勅賜萬年崇福禅寺」といい、臨済宗大徳寺派に属する。

仁治元年1240筑紫郡大宰府町横岳の地に随乗坊湛慧(ずいじょうぼうたんえ) 禅師によって創建された。翌年、聖一国師が宋より帰朝されるや湛慧は国師を迎え 開堂演法を請う。国師は宋の経山佛鑑禅師より授かった「勅賜萬年崇福禅寺」の八文字を 堂々と揚げ、ここに崇福寺は名実共に成立した。

天正14年1586岩屋城落城(島津、大友氏の戦)の際、兵火によって堂塔伽藍、 重宝、什物等創建以来350余年にして勝禅院のみを残し(ことごと)く鳥有に帰したが 、その跡に近年、仏殿、開山堂、禅堂、侍物寮、書院、山門、中門等が大宰府別院として再興された。

慶長5年1600黒田長政公が筑前国主となり大徳寺春屋和尚の請により復興を計画 、大宰府は不便につき現在地に移し、雲英、江月、江雲和尚の三代にわたり総門、御成門、 山門、仏殿、方丈、庫裡、書院、衆寮、開山堂等の伽藍が造営再建され、 慶長17年1612博多の巨商島井宗室の寄進により塔頭瑞雲庵(開山大應国師)再興。

元和元年1615心宗庵(当寺5世、大徳寺開山大燈国師塔所)再興。

寛永元年1624久野重剛が檀越となって正伝庵(大徳寺一世大現国師塔所)再興。 又、長政公より寺領として300石、開山堂領として50石寄進され、境内は東西が 馬出(まいだし)口より石堂際、南北が大通りより海浜までと広大な寺領を有し、大徳寺末、 筑前の触頭寺院として末寺、末々寺合わせて37ヶ寺を配下に置き、歴代藩主の 菩提寺として面目を保ったのである。

明治になると王政復古となり、本寺も無禄無檀の為、荒廃し明治11年1878には3塔頭も本寺に 合併廃寺となった。

明治28年1895、玄外和尚当寺に住されるや、境内の整備をされ、同39年1906、当寺の本堂を移して 心宗庵を再興、更に崇福寺に本堂、庫裡再建。福岡城より本丸表門を譲り受け、 山門とするなど伽藍の再建に尽くされた。

又、昭和6年1931には、維精和尚によって開山堂が増築され、昭和10年1935には鈍外和尚によって雲水 (修行僧)育成の機関として専門道場が設けられるなど旧観に復することが出来た。

平成4年1月1日 山主 白

参考:境内の案内板島井宗室(伊藤氏メモ)

ひとくちメモ

崇福寺は旧唐津街道の箱崎宿と博多の間に山門を開いている。 広大な境内には、旭地蔵、塔頭寺院である心宗庵などの建物もある。

また、本堂裏手には藤水門があり、そこをくぐれば広大な黒田家の墓所がある。

に山門の特別公開に行き、山門内の撮影ができた。 山門の二階には、黒田如水・長政の肖像、如意輪観音木像・古瓦などが安置されていた。

塔頭寺院

瑞雲庵、心宗庵、正伝庵

イベント

如水・長政の肖像

下の肖像はレプリカで、に山門の特別公開のおりに山門の二階に陳列されていた。 長政の顔はいっちゃ悪いがとぼけた顔に描かれている。


黒田家の墓石群

本堂に向かって左手は墓地になっており、その奥に藤水門がある。 普段は鍵がかけられており、お寺の許可がないと中へは入ることができない。

如水の墓石には、四側面にびっしりと賛が刻まれている。しかも、彼の墓だけは特別な黒い石でできている。


境内の案内板の内容

崇福寺と文化財

崇福寺は臨済宗の大徳寺派に属する寺院で、山号を横岳山といいます。仁治元年(1240)に 湛慧禅師によって.大宰府に創建されましたが、天正14年(1586)の島津氏と大友氏との 岩屋城の合戦によって焼失しました。その後・慶長5年(1600)に福岡藩初代藩主黒田長政 によって現在地に再建がなされ、黒田家の菩提寺となりました。

長い歴史を有する同寺には多数の貴重な文化財が残されています。 まず、目前の建造物は福岡城本丸表御門として建立されたもので、 大正7年(1918)に陸軍からの払い下げによってこの地へ移設されました。 福岡県有形文化財に「崇福寺山門」(地図①)として指定さ れています。この門は数少ない福岡城の建造物として貴重なものです。 また、境内には 名島城(なじまじょう)から移築されたものと伝えられる県指定有形文化財「崇福寺唐門(からもん) (地図②)があり、市内に残る唐門の中で最古のものです。また、絵画では藩祖黒田如水や初代藩主長政 を描いた絹本着色(けんぼんちゃくしょく)黒田如水像」「絹本着色黒田長政像」 の他紙本墨画出山釈迦像(しほんぼくがしゅっさんしゃかぞう) が同様に県の有形文化財指定を受けています。 古文書4件も本市指定の有形文化財で、このうち「崇福寺文書」は16世紀後半代を主体とする 崇福寺の歴史を知る上で重要です。 また、彫刻では「木造釈迦如来(もくぞうしゃかにょらい)両脇侍像(りょうわきじぞう)」 が市有形文化財の指定を受けています。
唐門と本堂の間に位置する「経蔵」(地図③)やその内部に経文を収めた輪蔵(りんぞう) は19世紀の中頃に建立された建造物で、 県の有形民俗文化財に指定されています。 また、境内の北西に接して、如水や長政をはじめ四代・六代・七代・九代の藩主などを 祀った「福岡藩主黒田家墓所」 (地図④)が所在し、二代(忠之)や三代(光之).八代の藩主などを 祭った博多区御供所町の東長寺の黒田家墓所とともに市史跡に指定されています。


島井宗室伊藤氏メモ

島井宗室は元和元年1615、博多の自邸で病により波瀾に満ちた生涯の幕を閉じた。『博多三傑伝』は行年77歳であったとしている。

家人はさっそく画工に命じて生前の面影を描かせて2種の画像を作成し、その絹絵を江月宗玩に送って賛を求めた。江月はこのとき既に崇福寺を去り、京都の大徳寺の156世住持を経て塔頭の竜光院に退隠していたが、画像を一見して鬢の毛の白さに生前の宗室に対する思いをなし、直ちに筆をとって賛した。画像のうち1種は福岡市立記念館の戦災により惜しくも消滅したが、島井家に伝えられているものはよく現存し、宗室の生前の姿を今に示している。

宗室の遺体は崇福寺瑞雲庵の墓地に埋葬された。宝暦14年1764に宗室150年忌が行われたが、墓石の破損が甚しいので、新石に代えられた。墓碑銘は崇福寺86世徳隠宗薩が筆をとった。その墓石は今日にも遺って、宗室遺裔の人々によって供養されている。

大正5年1916、宗室は生前の功をもって、神屋宗湛とともに従五位を追贈された。

(『島井宗室 (人物叢書 新装版)』より)()

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