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向春山() 宗栄寺(そうえいじ) [名島弁才天] 天台宗

歴史

境内の案内板の内容をそのまま記す。(段落・注釈は作者が挿入した。)

宗栄寺

天台宗 総本山は比叡山延暦寺
本尊 薬師瑠璃光如来
別本尊 弁才天(弁財天)

徳川三代将軍の治世、肥前島原で天草一揆が起こり、 幕府はこれを制圧するため九州の諸大名に攻めさせた。黒田藩黒田忠之も出陣し攻めるも屈せず、 寛永15年16382月21日夜、一揆の兵が黒田、鍋島等の陣を攻撃した。

この時黒田の将として一万石を領していた岡田半左衛門利良とその子佐右衛門も出陣していたが、この時の戦いに於いて父子ともに敵の銃丸により戦死した。 利良の妻[1]は二人の菩薩を弔うため尼となり、藩主に乞い博多妙楽寺を再興して父子を埋葬するとともに、 父子の遺品を名島の古塁の麓に納めて精舎を建て、利良の家士手島半兵衛の次男で比叡山で修行していた心性坊俊道を招き開基とした。 これが宗栄寺である。

亦同じ名島にあった弁才天宮[2]の別当寺神宮寺の末寺であったが、神宮寺は明治初年の神仏分離令により廃寺となり、弁才天社は名島神社となり、弁才天尊は没収され博多・芦屋等転々としたが名島地区民の強い要請と運動により明治7年1月名島へ還御、宗栄寺が別当寺となり今に到っている。

伊藤氏メモ福岡寺院探訪』によれば、元は東の山の下にあったが、大正末期、現在の地に移ったとのことである。()

参考資料:『筑前國續風土記付録

ひとくちメモ

参道口には、「弁財天」の束額のある鳥居がある。 そこから石段を登る。 その上は平坦部となっており、両サイドはよく手入れされた草木がある。 途中、ヘビの石像・門柱・石仏・社務所などがある。この参道を「弁財天通り」と呼ぶらしい。

弁天堂は正面にあり、本堂・薬師堂は弁天堂に向って左手にある。

宗栄寺の北側には名島神社が鎮座。その鳥居脇では帆柱石がみられる。 名島神社の北側には名島城址、その東側には名島運動公園などがある。 ざっと一時間くらいあればゆっくり散策できる地域となっている。

『筑前國續風土記付録』巻之35 名嶋村の項

辯才天社本編に見ゆ。神殿1間半2間半・拝殿3間半2間・石鳥居1基・祭禮6月20日・社僧神宮寺

産神なり。 辯才天・諏訪明神・白髭明神・天照大神・山王権現5座を祭れりと云。 昔より年ことの歳始に神餅をそなへ、吉村氏の村民魚味を調献する事あり。 しかるに社僧両部の社にあるへき事にあらすとて是をと丶めけるか、 神のた丶りありし故、おそれてもとのことく魚味を備へ祭る事、今にいたりて怠りなし。 か丶る規式を(ウケ)ためひぬれば、本編に記せることく宗像三神を祭れる事明なり。 社内に夷社・大黒天社あり。

宗榮寺テンジンノマヘ 天台宗 佛堂2間5間

向春山と號す。開山を眞性坊俊道と云。此寺岡田半左衛門利隆か妻尼となり宗榮といへるか建立せるなり。 寺内に観音堂及地蔵佛あり。

神宮寺タイミョウマチ 本編に見ゆ。 天台宗 佛堂4間7間

名嶋山海蔵院と號す。比叡山延暦寺に属せり。 慶安年中、快憲と云僧初住せり。 境内に観音堂有。

脚注

関連寺院

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