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() 西門鬼子母神(さいもんきしもじん) [妙典寺別院] 日蓮宗

歴史

堂内に「西門鬼子母神 縁起」(平成18年7月吉日銘)と題した文章が掲示されている。 それによれば、その縁起は下のようである。

大正10年192110月3日、江戸後期の大飢饉で亡くなった子供達を供養する為、 この地の住人達によって地蔵堂が建立された。 「徳泉地蔵」と命名される。

平成17年20053月20日の福岡西方沖地震により甚大な被害を受ける。 平成18年20067月、当地に鬼子母神と地蔵菩薩を迎え再興。 平成19年20077月、「得船結社」と称し、日蓮宗の正式な布教所として承認される。

この地は、安永7年1778、立花平左衛門増厚によって博多妙典寺第36世日定上人に寄進され、 日定上人は住職退任後「得船庵」という庵を建てて隠居した場所である。 「徳泉地蔵」の名もこの「得船庵」に由来する。

月例行事:毎月1日(8月を除く) 午前11時より 月例祈願祭・施餓鬼法要
※8月24日は夜7時より得泉地蔵尊祭を奉行。

ここに祀られている徳泉地蔵は福岡市新四国霊場の6番札所の本尊と思われる[1]

御堂の入口脇には西行天が祀られた小堂がある。

参考:『筑前名所図会』

ひとくちメモ

すぐ南側には国道3号線が通り、車の往来の激しい場所である。 門前は狭い路地の入口となっており、その北側一帯は昔ながらの建物も見られる場所である。

鬼子母神と言えば、作者は綺麗なお顔をされたやさしい母親のイメージが強いが、 ここの鬼子母神様は一見、怖いお顔をされておられる。 悪さをする息子に「あんた また喧嘩してきたっちゃろ。はよ 断りば言うてきんしゃい!」と叱っている相に見える。 よくよく眺めるとその中に母親の優しさも秘めているようである。

西行天

尊像は鬼子母神堂の前の小さなお堂内に安置されている。

近世以降、当地より200mほど西側の地点は唐津街道篠栗街道の合流点。石堂橋(いしどうばし)を渡ると博多の町に入る交通の要衝であった。 相当な賑わいのある場所だったと想像できる。

尊像が祀られている御堂に掲示された由来を下に記す。 明治・大正・昭和の時期の当地の情景を垣間見ることができる。

西行天(さいぎょうてん)由来(通称:かみなりさん)

形状を見るに鬼神と思われるが本地は不明。

当地一帯は旧町名を西門橋通りと称し、昭和初期には旅館や料亭などが軒を連ねて賑わいを見せる。 中の一軒、西門橋付近の旅館(屋号は不明)入口に西行天は祭祀されていたとのこと。

大東亜戦争半ばの昭和19年1944頃、軍部・役所の命令によって、川沿いの家屋は強制撤去を余儀なくされる。 家屋や家財道具を含め、一帯の全てを川の中に廃棄。西行天像も難に遭う。

当地の住民で靴屋を営んでいた松並氏という人物あり。

ある夜、松並氏の夢枕に「我は西行天なり。西門の町を守護する誓願あり。されど今は川の中、無念なり。急ぎ急ぎ引き上げさせ給え」とのお告げがあり。 松並氏、友人の小嶋安市氏を始め、地域住民の協力を仰ぎ、既に腕や足、頭部の角は損壊せしものの、無事に西行天像を川より引き上げ、自宅に奉安す。

昭和20年1945終戦。戦後の混乱の中、区画整理等が進み、松並氏宅での奉安が困難となる。 昭和27年頃より小嶋氏宅に移設。

当地一帯には明治初頭より数件の地蔵尊が点在。法性寺西側隣接地にも地蔵尊あり。毎年夏に正定寺が法味を言上。

昭和40年1965頃、西行天像は小嶋氏自宅より、地蔵尊脇に移設。

平成28年2016春、地蔵尊は諸般の事情により正定寺に移設。 西行天像のみが残る。小嶋安市氏の妻、チヱ氏、日頃参拝せし西門鬼子母神の妙典寺住職に像の移設を打診。

西門鬼子母神、創設10周年を迎えるにあたり、御仏のご縁と拝し、祠は西門橋に向いて設置。

西行天御威光倍増。当地守護の善神なり。

平成28年7月1日 妙典寺別院 西門鬼子母神 日端 拝

『筑前名所図会』 博多

得船庵ハ西門橋の北にあり妙典寺の末寺にて小庵あり。(以下略)

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脚注

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