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長光山() 香正寺(こうしょうじ) 日蓮宗

歴史

筑前國続風土記』巻の三によれば、日延上人(にちえんしょうにん)により寛永9年1632に創立される。 日延上人は、もともと朝鮮国の産で秀吉の朝鮮征伐のおりに囚われて日本に来て日蓮宗の僧侶となり、 房州[1]の誕生寺の住職となった。 この僧侶は不受不施(ふじゅうふせ)[2]の日蓮宗の宗義を固く守り、 お上からのお布施を受け取らなかった為に筑前(福岡)に流されて来てこの地に香正寺を創建した。

山門脇の立札には下記の記述がある。

江戸初期、福岡の城下と警固一丁目に9000坪の寺地を有していた日蓮宗香正寺との境には小川が流れ、 これを越えなければ城下へは入れなかった。香正寺開山日延上人(にちえんしょうにん)は囲碁の練達で、 かねて藩主黒田忠之公[3]の対手をしていたが、ある時、降雨で増水した川を渡ることができず、 登城の約束を果たせなかった。 後日、これを聞いた藩主は、早速上人のため、 紺屋町(こんやまち)通りから直線に架橋せしめた。 これが上人橋であり、後の町発展の基礎となった。 昭和10年代、川[4]は埋め立てられ、今の国体道路となる。 「上人橋」と刻まれた石の橋柱は、現在、香正寺庭園内に移され往時を偲ぶ (よすが)となっている。

上人橋橋柱保存有志

伊藤氏メモ福岡寺院探訪』に次のような記載がある。()

当寺の墓地には「お姫様の墓」「大隈言道の墓」がある。 お姫様の墓の姫の名を於佐手姫といい、関ヶ原合戦のとき、父不在の隙を狙って城を攻めた黒田如水の軍の人質となることで母や兄弟を助け、合戦の後も黒田家に留まり長政の養女となり家臣に嫁し、八代御前と敬われた。

日延上人に帰依し、香正寺開基檀越となる。一方の大隈言道は幕末の歌人で、広瀬淡窓の「咸宜園」に学び、野村望東尼らの門人もいた。

ひとくちメモ

福岡市中央区警固(けご)地区は、 福岡市一、二を争う繁華街、天神地区より国道202号線(通称:国体道路)を挟んだ一歩南側に位置する。

香正寺はその国体道路より少し南側に入った所(上人橋通り)に伽藍を構えている。 境内は近年改装され、境内全体が真新しい状態となっている。 境内には、黒田直之(官兵衛の弟)の墓碑、開山檀越長光院(黒田忠之の義姉)の墓碑など、 黒田藩ゆかりの人々のものや、持国天像多聞天像(いずれも山門)、浄行菩薩像などが安置されている。

この警固地区とその東の今泉(いまいずみ)地区は、仏教寺院の代表的な宗旨のお寺が集中しており、 駆け足で回ると一時間足らずでほとんどの宗旨のお寺を参拝することができる。
長光山香正寺(日蓮宗)・ 青龍山 長円寺(曹洞宗)・ 楊柳山不遠院 盛福寺(浄土宗)・ 光雲山 法泉寺(浄土真宗本願寺派)

関連寺院3

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