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耕雲山() 金龍寺(きんりゅうじ) [金龍禅寺] ★★ 曹洞宗

歴史5 phrases

筑前國続風土記』によると本寺は2度移転している。元々、怡土國高祺村(いとこくたかすむら)[1]永正(えいしょう)5年1508創建された。慶長16年1611に黒田藩初代藩主長政の家臣高橋伊豆により 荒戸山[2]に移転される。 最終的に現在の地に移転したのは二代藩主忠之により慶安2年1649である。 当時は、塔頭として、慈眼庵[3]・龍潜庵があったと云う。

境内に『筑前國続風土記』の編者貝原益軒(かいばらえきけん)1630-1714とその妻東軒の墓がある。 また、いずれも黒田二十四騎である衣笠因幡(きぬがさいなば)林太郎右衛門(はやしたろうえもん)吉田壱岐(よしだいき)の墓標もあるという。

林太朗右衛門は朝鮮出兵の折、戦乱のため孤児となった朝鮮の幼女を連れ帰り養育している。 この人は後に出家し妙清尼となり、林の菩提を弔う。妙清尼は「自分が死んだら墓は朝鮮の方を向けてほしい」と遺言。 彼女の死後に朝鮮の方を向いた地蔵が金龍寺境内に建てられたという。この地蔵を妙清地蔵もしくは朝鮮地蔵という。(下の写真を参照のこと)

伊藤氏メモ福岡寺院探訪』に次のような記載がある。()

寺内には、貝原益軒の銅像と同夫妻の墓碑がある。また、少し離れて「倉田百三福岡寓居の記念碑」が立っている。 『出家とその弟子 』を大正6年に出版した百三は、病気療養のため当寺の貝原益軒記念堂に1年余仮寓したという。『愛と認識との出発 』は、その前後の作という。

ひとくちメモ2 phrases

金龍寺山門前の通りは旧唐津街道である。

に、金龍寺の改装が終わっていたので再度お参りに行く。 本堂が新築され、その向きも西向きに変わっていた。 また、仁王門の位置・向きも、以前の旧唐津街道向きとは正反対の明治通向きに変更されていた。

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