お寺めぐりの友

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() 石堂地蔵尊(いしどうじぞうそん) [苅萱地蔵] 不詳

歴史6 phrases

お堂の境内に「苅萱石堂丸の物語発祥地 石堂地蔵尊の由来」と題した案内板がある。 いくら読んでも理解できないのでネットで調べると、この話はかなりのバリエーションがあることがわかった。 調べた範囲でかいつまんで述べると下記の通りである。 (この手の話には「つくり話」も混在することが多くどこまでが史実なのかは作者は敢えて詮索しない)

時代は西暦1100年代前半。 ある武士(加藤繁氏)が、この世の無常を感じ、突然妻を置いて高野山に上り出家。 妻は既に身ごもっており、男子を出産。父の幼名と同じ「石堂丸」と命名。 その後、この母子は夫(父)を探して高野山に行った。 当時高野山は女人禁制。やむなく母は麓の宿に留まり、 幼い石堂丸だけが父を訪ねて高野山に登り、そこで石堂丸は父と再開した。 父は石堂丸に我が子であるとは語らずに、石堂丸の探している父は既に亡くなったと告げる。 失意の母はその地で無くなる。 その後、この父子は最後まで「父子」の関係としてでなく師弟の関係を通して僧侶としての生涯を全うした。

「石堂丸」の名の由来

繁氏の父を繁昌という。 繁昌は40才になっても子ができない為、香椎宮に参籠し祈願。満願の日に「箱崎の松原の西の橋ぎわ、石堂口の川のほとりに、玉のように丸い石がある。これを妻に与えよ。必ず男の子が生まれるであろう」なる神のお告げがあり、 この地蔵尊の手にあった石を妻に与えた所男子(繁氏)が誕生したという。 この男子はこの石堂地蔵にちなんで「石堂丸」と命名された。

石堂丸の祖父(繁昌)・父(繁氏)はいずれも太宰府の刈萱(かるかや)の関守をしていたという。

参考:『筑前國続風土記拾遺』苅萱関址|日田街道

ひとくちメモ7 phrases

旧唐津街道の博多の東玄関口石堂橋の東側にある。 境内には、地蔵堂とその脇に小規模な藤棚がある。 藤棚に下には、「石堂地蔵遵跡」銘の石塔と、その脇には墓碑と思われる小さな石が安置されている。 お地蔵様の増長は30cm弱くらいと思われる。

このお堂の前は作者はたまに通る。 普段はお堂の格子戸は閉められていたが、この日()はたまたま、 近くの住人と思しきの方がお参りされており、格子戸が開けられていた。 堂内・境内は良く手入れされており、地元の方々の信仰心の篤さを感じる。

(宿題)この地蔵堂が太閤町割り後の所謂「博多七堂」の一つかどうかは調査中。

○關屋

二日市と宰府とに城下よりゆく衝なり。 川端に人家あり。 此邉苅萱関守の宅址といふ。 人皇75代崇徳天皇の御時1123-1142、加藤兵衛尉藤原繁昌といふ士あり。 其子を左衛門左繁氏といひけり。 相継て此関を守護せしか、 後に世塵を避けて高野山に入出家しけるを妻子是を尋ねて高野までゆきしことなど野乗にのせ俗謡にうたふ。 爰はその宅址なりといひ傳フ。高野山の麓に其妻の墓今もある事本編に出たり。 關の跡は通古賀村の境内なり。

糟屋郡左谷村建正寺に大なる碑あり。繁氏か建けるよし村人いひ傳ふれとも年代甚違へり。