崇福寺に属し、その隠居寺であったといい、以前は崇福寺の僧が兼務していたという。 その後、無住のときがあり荒れはてていたが、昭和10年頃初めて定住した(寺の話)。 「開山ハ江雲霊通和尚、檀越ハ黒田家ノ士小河平右衛門常章(法名:外成)。 寛文元年(1661)(中略)其母永寿院菩提ノ為創立ス」と『筑前国福岡区地誌 (1980年)』にある。 また、境内には、崇福寺の長政公夫人の墓所にあったといわれる「羪照院殿」と刻まれた石灯篭がある。 これは、終戦後「墓地を開放しろ」とのことで、墓地を片方に寄せたとき、ここに移したものという。()
博多寺町のほぼ真ん中に伽藍を構えている。 作者は博多駅方面から聖福寺にお参りに行く時永寿院の前を通る。 妙楽寺の門の北側にあり、いつも門を閉ざしている。
右の『筑前名所図会』には、山門の位置以外は、ほぼ現在と同様の伽藍配置で永寿院が描かれている。 また、聖福寺・順心寺・円覚寺・ 節信院・永寿院・妙楽寺・ 乳峯寺もほぼ現在と同じ配置で描かれている。
(前略)
古は子院27区あり。今はわづかに二区あり。 即宗庵 望雲庵、且崇福寺の末寺、永壽院も此寺の内にあり。
(後略)
開基は霊通禪師(江雲和尚をいふ。)にて開基壇越ハ小河常章(俗称兵右衛門といへり。)外成居士なり。 寛文元年(1661)建立せり。
永寿院の額ハ浅井權十郎か筆なり。
初江雲和尚妙楽寺の後の松原に庵を結び休せんと欲して、其地を國君に請奉しに、 即其地を與へ給ふ。しかるに、小河常章今の地に寺を建て、和尚の在住あらんことを請う。 これに依て、江雲彼賜ハりし松原を妙楽寺に與へて此寺地に替て住せり。 故に妙楽寺の門内に此寺有といへども、彼寺に属せず。別寺也。
江雲後来に異亂あろん事を恐れて、弟子孫に一紙の書牘を遺せり。 又小河常章も其由来を書き與へし書簡今にあり。 常章自ら山林を寄す。其子孫祖意を続て、わか采地の内に田畠をも與ふ。
寺内に外成居士の墓あり。その家族の墳墓有。什物に如水・長政公の肖像あり。 この外名緇の筆跡等あり。ここに畧す。
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