『筑前國続風土記』巻の3 福岡によれば下記の通りである。
山号を心光山雪幹院と言う。大長寺には黒田如水の父美濃守職隆の位牌及び書画がある。 その理由は、次のとおりである。如水の弟黒田修理圓則が那珂郡一の瀬村に職隆の寺を建て、 心光院西岸寺と言っていた。 開基の僧を長徹と言う。 圓則が亡くなりその寺を福岡城下に移そうとしていた。 その時大長寺の寺住文室が亡くなりその跡継ぎもいなかったことから西岸寺の僧を大長寺に移すとともに、職隆の書画位牌も一緒に移した。 元和3年1617職隆の三十三回忌にあたる時、 大長寺の山号を「福生山」より「心光山」に改めた。
貞享元年1684黒田家3代光之が大長寺で法事を行わせた。鎌田九郎兵衛が代参した。 光之は故あって参拝していない。何故だろう??
大長寺前の道は東側の親不孝通りから東西に約400mほど細い道(約4m)が一直線となっている。 この道は古い道のようである。
山門両脇の博多塀が美しい。
境内には観音堂・子安観音・地蔵菩薩像などがある。 『筑前名所図会』と現在とではほぼ同じ伽藍配置である。窟観音もほぼ同じ位置にある。
大長寺
心光山雪幹院と号す。 浄土宗西山派京都禪林寺の末なり。栗生光明寺にも支配す。
開山を圑空長徹といふ。 播磨國の人なり。
文禄中1592-1596如水公興雲公朝鮮軍に趣給ふ時、 圑空豊前園に有しか、文筆のため両公に従ひ彼地に海渡す。 慶長中1596-1615興雲公當國に入給ひし後、 圑空糟屋郡花津留の称善寺に来住す。 其比黒田養心如水公の弟先考職隆公の為に其采地那珂郡一瀬村に一宇を立、 心光山正岸寺と号し、寺産五拾石を寄附し、圑空を招きて住侶とす。 慶長17年1612養心卒す。 彼地に墓有。
さて此時大長寺といへるは、 初ハ小士野上何かしの宅地なりしを小刹となし、 福生山大長寺と号し、 舜空文徹と云播磨國姫路産僧の住せしか、 元和31617年3月7日文徹死して無住なり。 此年に宗圓[1]公の三十三回といひ、 養心内室の発願にて圑空を此寺に轉し、 宗圓公の画像位牌をも一ノ瀬よりここに移せリ本編に詳なり 此時山号を改て、心光山とす。 故に嘗寺にては舜空をは先基といひ、圓空を山号開山と称す。
寛文8年166810月火災にかかり、本堂霊屋悉く焦土と成。 其後再興あり。 又享保中1716-17357世徳誉か時、材木を賜はり改造す。 安永5年住持印空又霊屋を造立す。 御家門の人々助成あり。 其餘の資材多くハ寺家の自力を以て功をなしぬ。
御霊(屋)に安置し奉る霊牌左の如し。
心光院殿満誉宗圓大居士
心光寺ママ殿性誉渓翁長壽大姉
春光院殿前野州大守善岩宗ト大禪定門
松誉宗貞大禪定尼天明4年17848月22日は宗圓公の二百回忌に嘗らせ給ふゆゑ、 印空前年より豫め堂宇を修補せん事を思ひ立、 公に願ひしかは、公より米八拾俵を賜はりぬ。 同年6月27日公命有て、向後御霊屋を御軒付に定給ひ、 御寮施餓鬼の料米を賜事各差あり。是より歳首中元月々の御代参ハ御家門の人に定りぬ。 文化13年1816寺格濁禮轉せられ、年々米三俵を賜せらる。 文政6年1823國君より寺産四拾石を寄附し給ふ。 御判物別に高目録一通添
為ニ寺領一。於二那珂郡那珂村之内一。四拾石之地令ニ寄附一レ之詑。 可レ令ニ寺納一者也。
文政六年
12月7日 齊清[2] 御判
大長寺當寺は國中一派の触頭たり。 本尊の弥陀佛ハ聖徳太子の作にて元近江國矢橋村の廃寺に在しを、圑空捧て 此地に来れり。 或記に江州甲賀城主馬淵入道生西没落の時、彼如来舟人に現して湖水を渡し、 危難を救ひ給ひし霊像なりと記せり。 縁起一冊有し霊像なりと記せり。縁起一冊ありしか焼失して今はなし。 寺内に観音堂 地蔵堂あり。寺傅に薬あり。
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◎正福寺中間市垣生1185 |
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◎正覚寺中間市上底井野1747 |
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◎泉福寺宗像市鐘崎千代川467 |
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◎祥雲寺糟屋郡新宮町三代593 |
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◎称善寺古賀市天神1丁目24-14 |
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◎谿雲寺古賀市筵内1454 |
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◎阿弥陀寺中間市下大隈1148 |