お寺めぐりの友

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清水山普門院() 観世音寺(かんぜおんじ) ★★★ 天台宗

歴史

観世音寺のパンフレットの内容をそのまま記す。

太宰府観世音寺は、天智天皇が母斉明天皇の冥福を祈るために創建されたもので、 完成したのは聖武天皇天平18年746であります。 その規模は南大門、中門、五重塔、金堂、講堂、鐘楼、経蔵、僧坊など七堂伽藍を完備した西日本随一の壮大を誇っていましたが、 平安時代(11世紀)になって再三の火災や台風のために創建当時の諸堂は悉く消失しました。

その後再建されましたが、規模はもとの様な大きなものになりませんでした。

現在残っている創建当時のものは、京都妙心寺の鐘と共に日本最古といわれる鐘[1]と、諸堂の礎石、天蓋光心、天平石臼、(せん) などがありますが、幸いにして平安期の復興以降に造立された多くの仏像が残っています。 これらの仏像は作もすぐれ、法量も大きく、なかには4mから5mを越える巨像が3体もあります。 このようなことは他に余り類例のないことで、上代に於けるこの観世音寺の隆盛を物語っております。 この貴重な遺品はすべて国宝又は重要文化財として指定されています。

伽藍配置と出土品についてはこの下の項参照のこと。 寺の裏手の小高い丘の上にある日吉神社の記事はこちら僧正玄昉の墓所の記事はこちらをご覧ください。


ひとくちメモ

観世音寺のすぐ西南側に近接して戒壇院が伽藍を構えている。 もともと観世音寺の境内に設置され、所属していたものが、 黒田藩の藩命により博多聖福寺の末寺となった。 詳細は戒壇院のページを参照されたし。

有料(大人¥500)で観世音寺の寺宝を拝観できる。国宝・重要文化財の仏像など豊富である。¥500以上の価値は十分ある。

観世音寺周辺は、上述の戒壇院、水城跡、太宰府天満宮、大宰府政庁跡など歴史的に重要な遺跡が多数ある。 一日ゆっくり回っても十分時間が潰せる。

『筑前名所図会』の巻四 西都図 第二に当時の観世音寺と戒壇院が良く描かれている。

『筑前國続風土記』によると、その昔49坊があったということで、その名前が列挙されている。 そのうちの一つの金光寺跡が観世音寺の約600m北側にある。 下参照のこと。

伊藤氏メモ本日(11日)は、太宰府へ行って来ました。とは言え、今日は女房サービスでしたので、 いつものようなお寺めぐりというわけにはいきませんでした。 そのなかで、 延寿王院(天満宮内)、観世音寺、戒壇院は、二人とも今まで行ったことがなく、 本日の目的地として行ってきました。なかでも、 観世音寺宝殿の仏像はすばらしいものでした。 目の前に迫る5メートル級の仏像の迫力はなんとも言いようがありません。 当HP中でお奨めなの(500円以上の価値は十分ある)もむべなるかなです。 その他、通りががりにありましたので、光蓮寺(宰府1-10-23)と仏心寺(観世音寺4-3-1)というお寺にも行ってきました。 ()

観世音寺の鐘の記事

伊藤氏メモ『日経新聞(2016年10月15日号)』に、以下のような記事が掲載されている。

源氏物語にも登場する観世音寺の緑あふれる境内の片隅。石垣の上にある木造の鐘楼で、日本最古の梵鐘が静かに存在感を漂わせる。 総高159cm、口径86cmの鋳銅製。文武天皇2年698に造られた京都妙心寺と同じ鋳型の兄弟鐘で、竜頭の大きさなどからさらに古いと考えられている。 国宝にも指定された風情ある「観世音寺の鐘」は、環境省の「残したい日本の音風景100選」に選ばれている。

観世音寺の西隣は大宰府政庁跡。鐘が造られた7世紀後半から奈良・平安時代にかけて、九州地方の政治や経済・外交の中心であった。 「都府楼はわずかに瓦の色を見る。観音寺はただ鐘の音を聞く」。鐘の音は、学問の神様として知られる菅原道真が京都から大宰府に左遷され、幽閉されたとされる際の歌にも残る。

観世音寺によると、普段は定期的に鐘の音が響く機会は無いが、大晦日[おおみそか]の夜には住職らに加えて一般の約100人が鐘を突くことができる。また、JR博多駅隣りに2016年4月にオープンした博多マルイ(KITTE博多)の1階と2階で、収録された鐘の音を時報として耳にすることも可能である。

西南学院大学名誉教授で日本考古学協会長も務めた石田琳彰住職は、「菅原道真公が聞いた染み入るような音が今も聞ける」と歴史ある鐘の魅力を語る。()

金光寺(こんこうじ)

金光寺跡は、観世音寺の北側約600mの四王寺山の丘陵地帯にある(場所はこちら)。 『筑前國続風土記』巻之7 御笠郡上 ○観世音寺の項に49坊の名前が列挙されているが、そのうちの一つが金光寺である。

案内板によれば、この付近の小字名が「今光寺(こんこうじ)」と金光寺と通音することから、この場所が金光寺跡と比定されたとの言。

今は、礎石が残っているのみであるが、保存状態は良い。


日吉神社

伊藤氏メモ観世音寺道北の小高い丘の上にある日吉神社の参道手前にある解説板の内容を記します。

日吉神社は観世音寺の鎮守であり、地元ではヒヨシ神社と呼ばれる。比叡山の日吉大社を分霊したもので、平安時代末には置かれていたらしい。江戸時代の地誌によると、「豊臣秀吉が九州下向の折、この日吉神社に陣を張ったが、時の観世音寺の別当は世情に疎く、秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て秀吉の怒りをかい、寺領を没収された」と伝える。 ()

立派な鎮守の森である。石段両サイドにはクスノキの大木がある。 境内の清掃作業をされていた地元の方のお話によれば、向って右側のクスノキは昨年2015台風で折れたとの事。 案内板によれば、境内には他にスダジイ・イチイガシ・アラカシなどの大木があるとの事(市指定天然記念物)。


僧正玄昉の墓所

伊藤氏メモ戒壇院を出ると、すぐ北側に「僧正玄昉の墓所」がある。そこにある解説板の内容を記します。

玄昉は奈良時代の僧。阿倍仲麻呂、吉備真備らとともに遣唐船で中国に渡り、在唐18年、玄宗皇帝によって三品に准せられ紫袈裟を許された。

帰国後、奈良の宮廷で権力を振るったが、天平17年745造観世音寺の別当に左遷され、翌年、観世音寺造立供養の日に死去。政敵藤原広嗣の霊に殺されたと伝えられる。()


脚注

関連寺院

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