参道前の説明板の内容をそのまま記す。
戒壇院は「天下の三戒壇」の一つとして天平宝字5年761、 筑紫観世音寺境内の西南角に設置された。 唐僧鑑真は5度渡航に失敗し、身は盲目となりながらわが国に戒律を伝え、天平勝宝6年754奈良東大寺に戒壇を設けた。 ここ西戒壇は、下野薬師寺の東戒壇 と同年に創設され、九州の僧侶たちの登壇受戒の道場として継承されてきた。
江戸時代、寛文年間1661-1672より黒田藩家臣鎌田昌勝、豪商浦了無等によって再興が続けられ、現在に伝わる開山鑑真和尚像、本尊脇侍、梵鐘なども新造された。 元禄16年1703藩命によって博多禅宗四ヶ寺の管理となり、観世音寺を離れ、現在は 博多聖福寺の末寺となっている。 なお本尊廬舎那仏は平安時代の作で国の重要文化財に指定されている。
'95 太宰府市
境内では、鐘楼に掛けられた梵鐘(元禄14年1701銘)・鑑真和尚の供養塔・菩提樹(鑑真が中国より請来したと伝わる)・地蔵堂内の地蔵菩薩(元禄11年1698銘)などが見られる。
筑紫四国八十八カ所霊場第1番札所(本尊:釈迦如来)となっている。
江戸期は、仏教各派は武家の寺請制度・軍事上の施設としての強制利用など民衆支配の手段として 良いように利用されていた。 戒壇院の所属が観世音寺から聖福寺に変更されたのは上記のような理由であったのかもしれない。
九州歴史資料館の『筑前 太宰府 戒壇院』(九州の寺社シリーズ13)に上の大きな理由は禅宗・律宗・天台宗・真言宗の宗派間のもめごとであったとの記述がある。 近々その内容を記載するつもりである。