お寺めぐりの友

PC版

天原山() 安楽寺跡(あんらくじあと) [安樂寺・太宰府天満宮] 天台宗(単立)

歴史7 phrases

安楽寺はその昔、現太宰府天満宮の敷地にあった。もともと安楽寺の敷地内に天満宮が建立され、神仏混合で安楽寺と天満宮が共存していた。 明治維新の神仏分離の処置で、天満宮周辺に住む多くの社僧は復飾・還俗や財産処分などを余儀なくされる。 講堂、仁王門、本願寺、法華堂などの建物や多くの仏像などは売却あるいは破壊され、安楽寺は廃寺となる。

筑前國続風土記拾遺』巻之16 御笠郡 ニ 宰府村の項に下記の記載がみられる。 菅原道真が亡くなり、安楽寺が道真菩提寺として再興され、その後彼の名誉回復が行われ天満宮で曲水の宴が開催されるまでの経緯が 端的に記載されている。 (興味の在る方は)古語で読みづらいですが、ふりがな、注釈を付加するので我慢してお読みください。

天満宮安樂寺

所祭一座菅贈太政大臣[1]神霊也。 延喜3年9032月25日御年59にして宰府の謫所[2]にて (みまかり)給へり。 縁起に四堂の側に四堂のこと下に見えたり御墓所を(とも)しをさめ奉らんとしけるに、 御車(たちまち)に路中に留りて牛さらにすヽます。 是によりて其所を御墳墓と定奉る。 今の安樂寺是なりと見えたり。 今の御社の地を天原山安樂寺といふ。

菅神に扈従(こじゅう)して都より来し人味酒(まさけ)安行味酒氏は儒家にて紀傅道の家也、菅家の御門徒なるへし。 といふ人同5年9058月19日信託によりて菅家御傅記に安樂寺学頭か奉状に見へたり。御墳の上に(かり)に社檀を構へ朝暮所をさらす香華を供せしこと年あり。 その後都にしばしば恠異(かいい)とも多かりしかは、今上大に驚かせ給ひ菅神の御(たたり)なれはとて安行に勅ありて新に神庿(しんびょう)を創立せしめらる。 同18年918まて14年の間御殿を改ること度々なりし。 此時安行安樂寺を興立あり。

■安樂寺と申すは相傅云、「天智天皇の4年629に創造ありし古刹」なりしか、いまは寺塔漸荒廃に及はんとす。 此時安行當寺をも修造して潤餝を添られしかは、年を遂て堂塔伽藍繁栄して西國の名刹とはなりにけり。 同19年919勅有て藤原仲平公奉行として紫宸殿を宰府に下し神殿を改め建らる。 寂々たる瓊門108間の廻廊、右近飛梅左近橋あり。 法性坊天台座主贈僧正尊位神前に一念三千の池を構へ三世一念の橋を渡す。 江氏の安樂寺の詩に、門外及廣前往往有三池其水潔如珠看々高、(後略) 社檀の後に千手観音を安置す。 同年造営成就せり。 同23年9234月改元あり。延喜を改めて延長とす。 同4月20日菅神を本官右大臣に復し正二位を贈り、昌泰4年正月25日宣旨を焼捨らる。 かくて村上天皇天徳2年9583月3日太宰大貳小野好古朝臣當社に曲水の宴を始らる。(後略)

天満宮の社殿に向かって右手の一段高くなった所に、安楽寺の遺構で現在に唯一残る相輪橖(そうりんとう)がある。

ひとくちメモ1 phrases

前々から安楽寺が筑前国中三十三観音霊場 番外札所であることはわかっていたが、 ずっとそのままになっていた。 2013-04-10に天満宮にお参りに行ったおりそのことを思い出し、社務所の方に「安楽寺跡はどこですか?」と質問すると。 「ここです。神仏混合の昔はここは安楽寺天満宮と呼ばれていました。」との回答をいただく。 家に戻って『筑前國続風土記』『筑前國続風土記拾遺』を調べるとちゃんと書いてある。

関連寺院6

Top