仙厓和尚ゆかりのお寺のリストです。
在世期間 寛永3年(1750)~天保8年(1837)
博多の臨済宗妙心寺派の聖福寺の元住職で 仏画・書の達人である。博多の庶民との親交も広く、庶民を題材にした絵も多数残っている。
2009-10-12福岡市美術館で開催された「仙厓展(九州大学文学部所蔵中山森彦コレクション)」を 観に行った。禅画なのだが現代の漫画に通じるところもあり鑑賞する人が百人いれば百通りの解釈 ができるような書画が多い。見学に行く前は、書籍・インターネットなどでしか観た事がなかったが、 実際に鑑賞して改めて感心した。ニヤニヤしながら鑑賞できた。
年表・七代目市川團十郎のこと・ 仙厓老人六歌仙・ 年表もご覧下さい。
参考:仙厓義梵の書画|画像・博多の仙厓さん - 萬盛堂歳時記vol.59
博多中洲の先端部分にある中島公園内の東側の片隅(下地図参照)に「七代目市川團十郎博多来演の碑」(十代目 市川■■■銘)と記された石碑がひっそりと立っている。
すぐ脇の電柱に、はかた博物館提供の案内板が貼ってある。 その内容を下に記す。 仙厓の気骨が伝わってくる逸話である。
お江戸では市川ニかは知らねども
みますところは海老の面ン玉江戸の風紀引締で、江戸所払いになった千両役者市川団十郎(海老蔵)、天保バブル真っ只中の天保5年(1834)の博多へ。 36日間の興行収入は、〆て2、450両也。
ある日、団十郎は虚白院に仙厓和尚を訪ねたが、生来の狷介不羈が災いし、 和尚の機嫌を損ねて、待ちぼうけを喰わされ、やっと小僧を介してもらった一片の書物が上の狂歌。
ここで、虚白院とは、博多区御供所町にある幻住庵境内の建物。 仙厓が隠栖していた所。
同公園内で少し離れて「旧浜新地天保5年(1734)7世市川団十郎来演 中洲歓楽街発祥」の石碑がある。
仙厓が誰でも訪れる老いの様子を歌った歌を紹介する。自戒の念を込めて・・・。とくに、4、5、6は作者も気をつけよう。
西暦 | 和暦 | 年齢 | 記事 |
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1750 | 寛延3年 | 0 | (伝)美濃国 伊藤甚八の次男として出生 |
1760 | 宝暦10年 | 11 | 美濃市清泰寺の空印円虚(臨済宗古月派)のもとで得度。法名:義梵 |
1768 | 明和5年 | 19 | 行脚の途につき、武蔵国永田(現横浜市南区永田町)の東輝庵(現在は宝林寺に併合)の月船禅慧(古月派)の元に入門 |
1781 | 天明元年 | 32 | 月船禅慧遷化 |
1781-1788 | 天明元年-天明8年 | 32-38 | 唯一の資料であった仙厓作の『行雲流水記』この頃執筆か? 大正期に散逸しほぼ彼の活動内容は不明 |
1788 | 天明8年 | 38 | 聖福寺第122世住職盤谷紹適の招きによりに聖福寺入寺 |
1789 | 天明9年 | 39 | 聖福寺第123世住職に就任 |
1798 | 49 | 本山妙心寺からの瑞世之儀(紫衣を受け、本山の住職になる資格を得る儀式)出席の勧めを断る | |
1800 | 51 | 聖福寺の再興に着手。禅(僧)堂を再興 | |
1802 | 53 | 二度目の瑞世之儀の案内を断る | |
1804 | 55 | 三度目の瑞世之儀の案内を断りきれず聖福寺にて実施(居成瑞世之儀) | |
1805 | 56 | _RUBY(湛元等夷,たんげんとうい)が弟子となる | |
1811 | 62 | 仙厓は湛元を聖福寺第124世住職に就任させ、 自分は引退 | |
1812 | 62 | 虚白院に移る | |
1834 | 天保5年 | 85 | 七代目市川團十郎が虚白院を訪問(上の記事、七代目市川團十郎のことを参照) |
1837 | 天保8年 | 湛元、檀徒からの寄付を集める折、黒田藩家老野村隼人が応じなかった為野村家の位牌を寺外に放り出す。 その為藩から謹慎処分を受ける。同年京都行脚。これが、謹慎中の無断旅行の廉で宗像大島に流罪とされる | |
1837 | 天保8年 | 88 | 寂 |
1851 | 嘉永4年 | 湛元流罪を赦され、箱崎長性寺に隠棲 |