遠賀川より西側について記載する。 周辺スポットについてはここを参照のこと。
阿弥陀寺は西山浄土宗で山号を西向山という。境内の墓石はかなり古いものである。歴史を感じる。
街道はここより右にカーブする。
小学校の建物には御茶屋があったという。
下の月瀬八幡宮の本殿内の絵馬に描かれている。
正覚寺は西山浄土宗で山号を小松山という。
正覚寺内で写真撮影していると お寺の関係者とみられる老夫婦に声をかけられ、正覚寺の前の古道の話、底井野小学校が昔お茶屋であったこと など熱心にお話をしていただいた。また弘法大師ゆかりの大根川の話もうかがった。有難うございました。(2010-07-31)
本堂左手に弘法大師を祀ってあるお堂がある。西山浄土宗なのに真言宗の開祖があるので不思議に思ったが、 上のお寺関係者の老夫婦のお話では昔は弘法大師は別格で宗派には関係なしに信仰されていたとのこと。
蓮光寺は寶池山と号し浄土真宗本願寺派の寺院である。
蓮光寺前よりR98を横断すると、赤間宿に向かって右側に小田宅子生家がある。 そのお宅の前には石碑があり、その側面に書かれている内容を下に引用する。
小松屋二代清七長女婿義旦商に励、和歌を能。 天保12年(1841)善光寺詣、江戸旅し東路日記著
明治3年(1870)2月29日卒 享年82
『長崎街道 (大里・小倉と筑前六宿内宿通り底井野往還) (九州文化図録撰書 (1)) 』によれば、天性の美女で、 若くして鞍手の国学者伊藤常足に和歌の教えを受け、優れた作品を残しているとのことである。
父弥右衛門は底井野村の両替商「小松屋」を営んでいたという。
蛇足ではあるが、田辺聖子著の『姥ざかり花の旅笠―小田宅子の「東路日記」 (集英社文庫)』は江戸末期の 大阪・京都・東海道・江戸の当時の庶民のくらしの様子が和歌とともに詳細に述べられていて参考になる。
月瀬天満宮前の案内板の内容をそのまま記す。
猫城跡(Site Of Neko Castle)
猫城は、室町時代に麻生氏の端城として築かれたといわれ、 その城跡には、現在、月瀬天満宮の社殿があります。
城跡の丘陵には、高さ約20メートルの円錐状で、すそ野には水濠の名残りがみられます。
山鹿城の麻生元重と 宗像大宮司氏貞は、 数度の合戦に及ぶも決着がつかず、天正6年(1578)、遠賀川の東は麻生領, 西は宗像領となります。 氏貞は、家臣吉田倫行に雑兵150余人をつけ、猫城に配属します。
天正8年5月、豊後の大友氏(立花雪道の説もあり)の指令を受けて、 鷹取城主毛利鎮実が攻め込みますが、 宗像勢は激戦の末、これを打ち破っています。 頂上からは、遥に宗像・鞍手・遠賀が一望され、要塞の地であったことが想像されます。
「猫城」の名の由来は、定かではありませんが、「猫が背を丸めた姿に見える」とか「敵が攻めて来れば高くなり、 攻め下るときは低くなり、まるで猫のようだ」との言い伝えがあります。
中間市教育委員会
月瀬天満宮の本殿には、天保3年(1832)正月銘の狛犬が鎮座している。願主は小田清七郎と刻まれている。 小田清七郎の姉は歌人の小田宅子で鞍手の国学者の伊藤常足に指師事しすぐれた和歌を残しているという。 宅子は弟が成人後は、生家の隣に醤油製造業をはじめたという。(『長崎街道 (大里・小倉と筑前六宿内宿通り底井野往還) (九州文化図録撰書 (1)) 』)
街道はここで赤間宿に向って直角に左折する。
当地蔵堂の記事は砂原地蔵堂をご覧ください。
庚申様境内の銀杏の木は見事である。紅葉の秋・新緑の初夏に訪れてみてほしい。
照安寺は山号を木月山と号し、浄土真宗本願寺派の寺院である。
ここより、古月小学校までの道幅は狭く当時の道幅のままのようである。 また、道は左右にうねっている。
街道はここで赤間宿に向って90度左折する。 観音堂の記事は木月観音堂をご覧ください。
手前の照安寺前あたりから、街道は徐々に登り坂となっておりこの観音堂あたりが峠となっている。 旅人はここで一休みしたのではなかろうか?
古月小学校の正門の対面には地蔵堂がある。 地蔵堂脇には、木の化石と思しき奇岩がある。
石像の横に「天明六(1786)」の刻印が読み取れる。
ここから苦しヶ峠(荒五郎山)へ向かう登り坂である。
街道はここまでは舗装道路、ここから左側に曲がって山道に入る。 場所が分かり辛いが、入り口の向かい側に鉄塔がある。夏場は草木が茂っていて入口を判別できないかもしれません。
この舗装された道をまっすぐ登れば、薬師院にたどり着く。薬師院は右芳山と号し高野山真言宗の寺院である。
初めて足を運んだ。車の通った跡がある。単独行はやはり怖い。 街道の左側は主に竹林である。
寒い中底井野側より苦しヶ峠を我が念仏2号にて完走。 イノシシなどの動物が出てこないか怖かった。 本当は人の死体などがあったらどうしようかと思った。 ほんの5分くらいの距離ではあるがずいぶん長く感じた。
写真(1)中央のじゃり道が出口である。
お地蔵様の前の街道は綺麗に舗装されている。ここより数百メートルで赤間道との合流地点である六反田の交差点である。
この辺は、赤間宿に向かって右側には、古い民家が点在している。