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旧街道» 篠栗街道» 八木山

貝原益軒が『筑前國続風土記』巻之12 嘉穂郡の項に当地の当時の情景を簡潔に記している。 当ページの概要はこの記事をもって替える。以下に引用する。(段落は作者が挿入しました、)

○八木山

此里は四方皆山ありて、山間の幽谷にあり。

鞍手郡大賀畑[1]の谷の上の極まれる所にありて、西は篠栗の方より、山伏谷[2]の高き坂をのぼりて此村に入。 東は穂波の方より、石坂をのぼりて此村に入る。 東西と北には通路あり。 只南方は山高くして通路なし。 西南には舎利倉と内住村にゆく道あり。

此地は山の上谷の内なる里也。故に境地(はなはだ)高くして、人里通し、冬には雪ふかく寒はげし。夏は蚊すくなし。雷のおと耳にちかく、とゞろきなる事恐ばし。(かん)はげしき故、橘柑(みかんくねんぼ)の類植ても、みのらず。後は枯る。只梅柿栗椎のみあり。萬こと里に替れり。

大賀畑の下谷口より、こゝまで(およそ)4里、幽谷のぼりて来る。大賀畑川の源なり。 上座郡の小石(こし)原に似たる所也。 此里に篠栗より飯塚河袋(かうぶくろ)へ通る大道あり。

上村下村にわかれて、人(くわん)[3]所々にあり。 又此村に龍王嶽と云高山あり。むかしは山上に龍王の社ありしにや、今はなし。 此山の南北の諸村の農人等、大(ひでり)の時、此山にのぼりて(あまごい)す。 土民、此山は彦山に三尺ひきしと云傳ふ。 さほどすぐれたる高山にはあらず。 此山に登れば、嘉摩穂波両郡目の下に見ゆる。其東に天狗岩とて、高き山の北の側に大岩つゞけり。 又此村の境内八十山と大賀畑の間に、馬落の瀧と云所あり。長40間(ばかり)大石あつまり、衆石の間を水流る。つゞきたる瀧にはあらず。是より上には鮎[4]上がらず。故に鮎返りと云。 瀧の上河中に長云わ7間なるあり。大賀畑より登れば、八木山の方地形高し。

八木山の内中村と云所に、八木山氏の墓とてあり。 老松の社[5]の前に、八木山氏宅の跡とてあり。これむかし此村を領せし人なるべし。

上村の竹林の内、梅の木谷の西の高き所に大松あり。其木の周3圍半にあつまれり。 疣贅(いぼこぶ)多し。枝さかえしげれり。かゝる大きなる恠松はめずらし。此松元禄の末年枯たり。

石坂は八木山の東に在。同郡の諸村は皆此坂より下にあり。此坂の上より東の方をのぞめば、豊前の田河郡、嘉摩、穂波の当方の諸村、眼下にありて佳景也。此所の路、初は北方の山上さがしき所にありて、人馬のわづらひ多かりしを、長政[6]公入國の後、如水[7]公是をうれへ給ひ、久しく爰に逗留して、今の石坂の道[8]を切開き給う。 誠に其惠廣しと云つべし。 如水公逗留の時、茶亭をかまへて休息したまひし跡に、今(なお)松2本残れり。 茶屋[9]のあるじの村民には、永代土貢(とく)をゆるさる。今にしかり。其民屋のある所、今も茶屋と云。

ここから先のルートは1:50000 chikeizu | Stanford Digital Repositoryに掲載された昭和11年に最終改定された大日本帝国陸地測量部の1/5000の地図を基にしている。藩政期のルートとは必ずしも一致していないと思われる

ここでは、篠栗街道の八木山の山中のルートについて記す。

ルート(概算距離:16391m)13

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