『長崎街道 世界とつながった道』に掲載されている「御笠郡図」(文久2年(1862))を見れば、長崎街道原田宿から(森本)→(木山)→(タラミ)→諸田村→恒松村→永岡村→針摺村の経路で街道が描かれている(()で囲ったの地名は小字と思われる)。これが、原田宿から宰府への参詣道だろう。
当参詣道は、針摺村で日田街道に合流。その後二日市宿もしくは山家参詣道経由で宰府に入ったものと思われる。
『長崎街道 世界とつながった道』によれば、原田宿の町茶屋の休憩者名簿には長崎奉行の家族が江戸への帰り道、原田宿で「宰府御参詣」に備え、お茶漬けを所望したと記されているという。
長崎街道原田宿の東構口を出た所に追分石「左 太宰府天満参詣道」がある。文久4年(1864)に長崎の寄合町の商人が建てたものであるという。 同書の巻末の「北部九州の近世主要街道」図をみれば、原田宿-二日市宿間に街道があったことがわかる。
『筑前名所図会』筑紫神社 原田駅(解説)図をみれば、東構口から山家宿に向かう道とこの二日市宿の向かうと思われる道の分岐状態が描かれている。
当街道の全ルートは『筑前維新の道―さいふみち博多街道』 (九州文化図録撰書)のぶ工房によった。
東構口を出ると「左 太宰府天満参詣道」と記された追分石に突き当たる。 この追分石の前を右に曲がって東側の道を進めば、長崎街道・山家宿に向かう道。左に曲がれば宰府に向かう参詣道である。
追分石の側面に「長崎寄合町」の5名男性の氏名が刻まれている。 当追分石建立の寄進者の一覧と思われる。「寄合町」とは寛永19年(1642)に市中の遊女が丸山町・寄合町に集められたのが始まり。 延宝版『長崎土産』には「丸山町遊女屋59軒遊女335人内太夫69人、寄合町遊女屋44軒遊女431人内太夫58人」とある。(丸山 (長崎市) - Wikipedia より。
これらの寄進者達は遊郭の経営者だったのだろうか? 現代の寄合町の場所はこちら。丸山町の隣町である。
同追分石の裏面には「文久4年(1864)甲子 太宰府宿坊 執行坊」とある。 安楽寺天満宮によれば、この執行坊は安楽寺天満宮の5別当の内のひとつ。当追分石は執行坊が中心となって建立されたものと思われる。
東構口|原田宿も参照のこと。
参詣道は筑紫神社門前の追分石より徐々に上り坂でこの以来尺橋を渡り左手に送電線を見て北上する。
現在はこの地点は当参詣道・JR鹿児島本線と県道582号線とは立体交差している。 県道582号線は切通をまっすぐに西進している。
昔はこの少し手前で左手に曲がり、この橋の手前で右に曲がり橋を渡ったあたりで分岐。 直進すれば参詣道、左折すれば現在の県道582号線の経路をたどっていたようだ。 県道582号線を直進させるために丘を削り、その上に参詣道を通す為に、この橋が建設されたようだ。(今昔マップより推論)
「以来尺」。気になる珍しい固有名詞である。由緒などはわからない。この先に「以来尺踏切跡」もあるがこのあたりの地名なのだろう。
ここでは、以来尺橋を渡った所から以来尺踏切跡手前までについて記す。
この地点付近の道は左手にJR鹿児島本線がほぼ平行して通っている。 白い危険箇所にはガードレールが設置されているが、かなり老朽化している。 踏査には十分な注意が必要。特に、⑦から先は倒木や多数の蜘蛛の巣があり、見通しも悪いので単独行は避けるべき。
作者が踏査したルート(地図で示しているルート)は送電線鉄塔前後では鉄塔が建設された為か若干東側に変更されているようだ。
右図は以来尺橋を渡った所から順に付番して掲示している(10-15m間隔で撮影)。
⑦から⑪までの道は昔の道の風情を十分感じることができる。
⑪地点で道は草木が繁茂しているため、前進を断念。ここからさらに前進すると以来尺踏切跡に到達するはずである。
ここでは以来尺踏切跡から次の大日堂までのルートをたどる。
写真は以来尺踏切跡から太宰府に向かう順に付番しています。
この地点付近の道も見通しが悪いので単独行は避けるべき。以来尺踏切跡付近は鹿児島本線の列車が頻繁に走るので十分な注意が必要。間違っても線路は渡らない事。
以来尺踏切跡からしばらくは昔の風情が感じられる道だ。 まさに「緑のトンネル」である。
作者はルートへは假塚大日堂側から入って踏切跡まで行き、そこから引き返しながら歩いた。
踏切跡に向かう山道は始まる所は地元の人でないとわからないかもしれない。 そこには大きな竹が倒れており、それをまたごして山道に入る。
幸い、近くに地元の古老(女性)がおられ、親切に教えて頂いた。感謝感謝感謝! 古老の話ではいまではこのルートは利用されてないが、昔は馬車も通っていたという。 当参詣道は、太宰府天満宮参詣者だけでなく地元の方々の生活道としての役割があったのだろう。
大正期(1912-1926)の地図ではこのあたりは「筑紫假塚」あるいは単に「假塚」と呼ばれていた。
「かりづか」ではなく「かんづか」とよむ。
ちなみに、少し北側の泰仙寺のあたりは「諸田假塚」と呼ばれていた。
道はここより上り坂となっている。
御堂のすぐ裏手にはJR鹿児島本線が南北に走っている。
泰仙寺は祥雲山と号し真宗大谷派の寺院である。
猿田彦大神は街道の右手にポツンと立っている。 寄進銘などは確認できない。
道は上り坂である。