山家宿は慶長16年(1611)ころほぼ宿場としての体裁が整った。
筑前六宿の一つの宿駅であった。
右の図は筑紫野市教育委員会により、万延元年(1860)~文久元年(1861)頃の宿場の復元された図である。 宿場内の街道はほぼ現在も当時のままに残っている。
山家宿の初代代官は、桐山丹波守孫兵衛である。慶長16年(1611)に黒田長政より知行目録を受けている。 桐山丹波守は、黒田25騎の一人で、山家宿代官として宿駅の創設、冷水峠の開通などの功績がある。
1800年代の当時の様子は『筑前名所図会』によく描かれている。西構口はほぼ現在の形のままである。
『筑前國続風土記』巻之9 御笠郡下の項に下記の記載がみられる。
○山家
豊前小倉當國の黒崎、木屋瀬、飯塚をへて、 此宿に来り、是より西原田へ行き、 それより肥前田代を越えて長崎の方に行く東西の通路にて、 宿驛なり。 町あり、國君の新館あり、民家多し。 又博多より二日市を経甘木に行き、 筑後へ通る。南北の大道[1]も此宿の少西にあり、近し。
ここでは長崎街道の山家宿より次の原田宿の手前までについて述べる。
東構口は写真のとおり、当時の面影は残っていない。
東構口の裏側には代々、大庄屋を務めた近藤家の役宅があった。 現在は、更地となっていてその長屋門の写真が載った案内板があるのみである。
ここには長屋門があったが、老朽化が激しく危険なため平成8年の台風で倒壊の恐れが出たので、 解体保管し、時期をみて復元する計画があるとのことである。
下に案内板の内容をそのまま記載する。
筑紫野市指定史跡山家宿大庄屋役宅跡
ここは、寛保2年(1742)ごろ山家村大 庄屋に就任した近藤弥九郎 の役宅跡です。 大庄屋とは、江戸時代に触(郡を二つか三つに区分した行政区)を管理していた 役人のことで、各村への年貢の割当てや納入、土木工事、参勤交代に人馬役 など広範にわたり、村政に深くかかわっていました。
役宅の東側には、山家宿の入口を表す構口があり、長屋門は明治22年(1889)まで山家郵便局として 使われていました。
筑紫野市教育委員会(1996.3)
西福寺は浄土真宗本願寺派の寺院で、山号を桃渓山という。
もともと久留米藩領に開基されたが,西本願寺座主と藩主とのいざこざで、御笠郡桃谷に退去し、正保4年(1647)に現在の地に移転したという。
西福寺より街道をはさんで西側には観音山 円通院が伽藍を構えている。
どの建物がそれにあたるか未確認である。宿場の概略図をもとに取材しなおして確認後掲載しなおします。(2010-12-08)
郡屋跡は、ちょとした駐車場があり敷地内を見学できる。
土蔵はその脇の案内板によれば、 大・小名の参勤交代の時に使う旅支度品や街道の補修用具の収容を目的として作られたものであり、 一般の土蔵とは構造的に異なり柱を一本も使っていない規模も大きな珍しい建物とのことである。
表の戸は閉まっているが開けて内部も見学可能である。土蔵内部は当時の生活道具らしきものが多数置いてある。
郡屋の入り口の案内板の内容をそのまま記す。
筑紫野市指定史跡 山家宿郡屋跡
郡屋戸は、その郡内の村役人たちが集まって、郡奉行の通達を受けたり、参勤交代の人馬役の 打合せなどをする施設で、主な宿場に置かれていました。 敷地内には郡屋のほか、郡屋守の役宅、土蔵などがあり、郡屋守が管理していました。
山家宿の郡屋は、17世紀後半から記録に見え、明治維新で廃止されました。 明治元年6月郡屋守はそれまで預かっていた諸道具を雑餉隈郡役所に返し、 建物は壊されました。
今は当時の建物の基礎だけが残っています。
筑紫野市教育委員会 1994.3
裏面には碑文が刻まれているが、風雪による摩耗で判読不可能である。 山家宿の成り立った時期を記念した石像とのこと。
『長崎街道 世界とつながった道』によれば、桐山丹波守がこの町をはじめて造ったこと、 この恵比寿像がこれを記念して寛永10年(1633)に志方彦太夫によって福岡藩と山家宿の繁栄を祈って建立されたことが刻印されているという。
当時の道幅がそのまま残されているとのこと。両側の練塀もほぼ完全な形で残っている。 筑前六宿ではここだけとのことである。
右写真の追分石は筑紫野市歴史博物館に常設展示されている。
表面:「右 肥前 太宰府 長崎 原田」 「左 肥後 久留米 柳川 松崎」
裏面:「世話人・問屋武作」
昔は街道はこの地点で二股に分かれて南進していた。 両街道はいずれもこの先わずか300m足らずで日田街道に突き当たる。
『ちくし散歩』(筑紫野市教育委員会)の山家宿の追分石の項によれば、 元治元年(1864)、庄屋たちがこの道の一本化を郡代役所に願い出た結果「右」の街道が廃止(一本化)されたという。 追分石の世話人、問屋武作は文久元年(1861)に問屋の職を譲ったことが、別の記録からわかり、この追分石がそれ以前のものであることが証明されたという。 この追分石は、それ以前、まだ左右2本の街道があった時に利用されたもののようである。 同書によれば、この廃止された道は「原田往還筋」と記載されている。
当時のこの地域の人々は、村の中に見ず知らずの旅人達(時には大勢の大名行列などなど)が通るのはかなり迷惑に感じていたのではなかろうか? 上の一本化の嘆願も、少しでも旅人達が通るコースを減らそうと願った結果ではなかろうか?
関番所は浪人取締の為の施設である。 もともと、黒崎・原田・前原にしかなかったが、 元治元年(1864)7月、福岡藩は浪人取締の為、主要宿場17箇所に設けた。
恵比寿板碑は民家の前にほこらしげに鎮座している。
手元に資料がなく、山家宿内の恵比寿とこの地点の恵比寿との関連性はわからない。 ただ、釣り竿を右手に持ち、魚を左手にかかえているので恵比寿像に間違ない。 また両者の刻まれている石質・描かれている絵の線などからして同じ石工の作ではないだろうかと思われる。
「是従西御笠郡、東夜須郡」。街道はここより左に急カーブする。 詳しくは日田街道福岡城路の二日市宿参照のこと。
未踏査の為、未稿。
公道を通ってきた街道はここからしばらく砂利道となる。
右手は筑紫神社の杜である。
東側の鳥居をくぐると、長い石段があり、筑紫神社の社殿のある平坦面まで一気に上ることができる。
この鳥居から社殿に上るルートは現在ではあまり利用されていないようだ。
次の宿場は原田宿である。
砂利道を進んできた街道はここで右に直角にカーブする。
ここから筑紫神社3の鳥居までは少しきつい上りである。
街道はこの鳥居の前がピーク地点。ここから原田宿西構口までは下り坂である。
筑紫神社の起源は、少なくとも延長5年(927)まで遡るという。詳しくは筑紫神社 - Wikipediaを参照のこと。
江戸末期の絵図をみれば、当時は当社の鳥居はこの鳥居のみで、他の鳥居は描かれていない。後に建立されたものと思われる。
街道はこの鳥居をくぐって、まっすぐ下り原田宿の東構口に向かって進む。