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旧街道» 長崎街道» 嬉野宿

嬉野宿は、「嬉野湯宿」「湯町」あるいは「嬉野駅」と呼ばれていたという。 宿場内には旅籠30軒、その他商家・農家など併せて100軒ほどの規模。

元々嬉野宿は長崎奉行や諸大名は通過するか、小休止する程度がほとんどであり、稀に宿泊地として定められると上使屋(御茶屋)は手狭で不便なため瑞光寺が本陣として使われていた。

寛政9年1791牛津宿で火災が発生し宿場中心部が焼失、宿泊ができなくなる。 それを契機として嬉野宿での宿泊が増えるようになり、寛政9年1797には正式に長崎奉行の宿泊地として決定された。

江戸期は佐賀藩の支藩蓮池藩の領地であったという。 (『長崎街道 (肥前佐賀路) (九州文化図録撰書 (2))』などより)

ここでは、嬉野宿手前の下宿の追分(塚崎ルートと塩田からのルートの合流点)から、次の彼杵宿の前までのルートについて記載する。

ルート(概算距離:12384m)81

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