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旧街道» 長崎街道» 塩田宿

奈良期に編纂された『肥前国風土記』によれば、「潮高満川(しおたかみつがわ)」と呼ばれており、 そのことから「塩田川」と言われるようになったという。 古代にはここより南方1kmほどに鎮座する吉浦神社付近には古代官道が通っていたとも言われ、昔からの交通の要衝であったようである。

江戸期に入ると、長崎街道の宿場町として栄え、大小の町家が軒を連ね、 町の南側の港には、塩田川を行き来する多くの船があった。 陶磁器やその原料となる天草陶石などが荷降ろされ佐賀南西部における経済の中心地として栄えた。 また、佐賀藩の支藩である蓮池藩の拠点ともなっていた。

しかし、度重なる塩田川の氾濫で、旅人は足止めされることが多く、18世紀後半より嬉野宿-武雄間の塚崎道が主流となる。 (『居蔵造の街並み 塩田津』(塩田津町並み保存会編)、宿場内の案内板などより)

ここ塩田宿の説明資料には「塩田津」として説明されている場合が多いようである。 作者は、一般の「津」とは、海の港とイメージが強い。 昔の人達も一般にはそう理解していたのではなかろうか? この川沿いの港を「津」と呼んだのはそれだけ、この付近の塩田川の規模が大きく、 港を出入りする船の数も規模も大きかった事を誇張、自慢してのことではなかろうか?

ここでは、塩田宿から、次の下宿追分までのルートを記載する。

ルート(概算距離:9414m)34

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