ここでは境原宿より次の佐賀城下の手前までを記載する。
境原宿 佐賀国道事務所によれば、境原宿もこの手前の神埼宿と同様に 明治7年(1874)に起こった佐賀の乱で、多くの家が焼けてしまい、当時の街並みの面影はほとんど残っていない。 ただ、恵比寿像だけは生き残ったようで宿場内に点在している。
境原宿は、宿場の出入り口である構口、または木戸がどこにあったのか、それとも、もともと無かったのか分からない。 そのため作者はどこからが宿内なのか判然としない。このことを詮索するのはあまり意味がないのかもしれない。
ここでは、浄覚寺から問屋場までを宿場内と仮定して掲載する。
街道はこの三叉路を右側に向かってゆるやかにカーブする。
三叉路脇には浄覚寺が伽藍を構えている。浄土真宗本願寺派の寺院である。
若宮神社はこの原の町交差点の北側の中地江川にかかる正一位橋を渡ったところに鎮座している。
一の鳥居は千代田町の重要文化財に指定されており、その両サイドの柱には作者は判読できないがびっしりと文字が刻まれている。 おそらく寄進者の名前ではないだろうか? また、本殿前には肥前狛犬が鎮座している。この狛犬は至ってシンプルな形をしている。
神社内の案内板によれば、元は別の場所(鷹取山)にあったものを佐賀藩祖の鍋島直茂が永禄4年(1569)に神埼6丁目牟田に 遷座した。
文禄元年(1592)には豊臣秀吉が朝鮮出兵の際、安全祈願のため馬を奉献したという。それ以来佐賀藩主は代々献馬。 寛永18年(1641)に現在の場所に遷座されたという。
この原の町交差点の付近には3体の恵比寿像が鎮座している。(写真は2体であるが、もう1体はこのページの一番上に掲載している。) いずれの恵比寿様もその前には1円玉が多数お供えされていた。 ここも地元の方々の信仰心の深さを感じた。
この付近には、その痕跡は何も残っていない。
工場脇にひっそりと鎮座されている。
郡境石は街道沿いの民家と畑にはさまれた場所に立っている。 「従是西佐嘉郡、東神埼郡」
街道の反対側にはかなり古い「佐賀市」の標識が立っている。
この付近は写真のようなクリークが多数みられる。 街道はここを左にカーブして佐賀へと続く。
橋の名前の由来は作者は知らない。名前のとおりここに一里塚があったのかもしれない。 このあたりは見渡す限り田んぼ・クリークである。
クリーク周辺にはハゼの木が植えられている。
次の宿場は佐賀城下である。