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旧街道» 長崎街道» 飯塚宿

「飯塚」の名前の由来は下の二つの説がある。

  1. 下の『筑前國続風土記』の項で説明されている明星寺造営の開堂供養の時に飯を炊き過ぎ、余った飯を積み上げて つくられた「飯の塚」からきた。
  2. 嚢祖八幡宮の項で説明されている「またいつか尊顔を拝し奉らん」からきた。

飯塚宿は、そのほとんどの部分が現在の本町商店街・東町商店街のアーケード内を中心としていた。

当時の宿場内の古い建物は街道沿にはほとんど見うけられない。

下の筑前名所図会は東から其一、其二、其三と連続している。 三枚を続けてみれば当時の飯塚宿の様子がよくわかる。

筑前國続風土記』巻之12 穂波郡の内容をそのまま記す。(段落、ふりがなは作者が挿入した。)

○飯塚村

上方より西南諸州往来の宿驛なり。 國中の郷里にて民家多き事、姪濱甘木につげり。 蘆屋川の上なる故、川舟多く、運漕の便よくして、 海味もともしからず。

富人も又(すこぶる)有て、にぎはへる町也。 此河は大隅川にはあらず。 其源は内野、山口、大分の谷々より出。 秋松より飯塚を過、其下なる片島にて大隅川と一になり。

驛の北に納祖八幡の宮あり。此所の産神也。

此所を飯塚と名付しは、當昔(そのかみ)明星寺造營事終り、 開堂供養の時、飯を多く(かしぎ)しが、其(あまり) 多くして、此所に塚の如くつみける故、飯塚といふといへり。 今其塚残りて、國君行館の内居齋(いま)の前にあり。 此他にも此邑の内にて、先年飯の石と成りたるを掘出せし事有しとかや。

又此村に太養院と云寺あり。 寺僧の云傳ふるは、明星寺營作の時、食物をとゝのへし所に立し寺なる故に大養院と號す。 山号を飯塚山と云。 此寺初は飯の塚の側にあり。國君の行館されし時、今の地に移せり。

此寺は如水公長政公筑前を給はり、豊前中津より此國に入給ふ時も、 此寺に寓居したまへり。 依て寺産十石を賜ふ。今にしかり。

慶長の比の住持功傳、山野田圃の事を知り、數量の事など才覚ある僧なる故、 長政公中田圃の廣狭(くわうけう)を改め計りたまひし時、嘉摩穂波など 儉地(けんち)の役人に功傳を加へらる。 秋月領などに功傳竿と云あり。 如此なる故、名島福岡へも召れけり。 彼是の恩惠を仰て、後年長政公の影像をも安置す。寺の門内に建石あり。 三世僧斗南、一石一宇の法華経をうづむるしるしなり。 此寺の本尊観音は行基の作と云。

ルート(概算距離:12920m)60

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